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だれも、きいていない歌、いまも、きこえる歌。

立原道造が26年の短い生涯を終えてから今年で80年が経ったという。彼の短い人生を思うと、その後、彼がもし、あと数十年生きていることができたのなら、どんな道を辿ることになったのか、そんなことを考えずにはいられない。

僕と立原道造が出会ったのはちょうど10年ほどまえのこと。彼の詩業も、人生も、絵も、建築も、あらゆるものが僕にとっては生きる指針だった。あれから10年。僕は道造よりもどんどん年をとっていってしまう。僕の年には、いったいどんなことをしていただろう。戦争には行かなかったと思うが、あの戦争に、彼はなんて言うのだろう。見なかったかのように、そのときもまだメルヘンを歌うだろうか。

ふたたび、道造のことを書く機会があったのでここに記しておきたい。

立原は大正3年に東京日本橋に生まれた。立原が育ったのはまさに、大正モダンの真っ只中であった。しかし、5歳のときに父親を亡くし、9歳のころには関東大震災によって生家を失ってしまう。昭和に入り、15歳には神経衰弱によって学校を休学するなどして健康を損なう。立原の成長には常に「喪失」が伴い続ける。そうしたなかで、短歌や詩をつくり、パステル画を描いて過ごすようになっていくのも頷けるものはある。

そんな立原が旺盛に作品を書き出し、詩人としても認知されるようになるのは昭和10年前後のことである。時代は徐々に戦争の足音のする時期に差し掛かってきたころで、事実、昭和6年には満州事変、11年には二・二六事件、12年には日中戦争が勃発している。それらに立原が全く反応をしめしていないわけではないが、彼の作品を読むと、そんな時代の空気感とは無縁の、どこかメルヘンの世界のような場所に連れていかれるような気がする。

        夢みたものは……

  夢みたものは ひとつの幸福
  ねがつたものは ひとつの愛
  山なみのあちらにも しづかな村がある
  明るい日曜日の 青い空がある

  日傘をさした 田舎の娘らが
  着かざつて 唄をうたつてゐる
  大きなまるい輪をかいて
  田舎の娘らが 踊ををどつてゐる

  告げて うたつてゐるのは
  青い翼の一羽の 小鳥
  低い枝で うたつてゐる

  夢みたものは ひとつの愛
  ねがつたものは ひとつの幸福
  それらはすべてここに ある と

「ここに ある」とうたう「青い翼の一羽の小鳥」がいる「ここ」とはどこなのだろう。この風景を見ている詩人は、どこにいるのだろうか。「山なみのあちらにも しづかな村がある」とあるから、いま、詩人は、「山なみ」の「こちら」にいるのだろうか。だから、「ここ」というのは「山なみのあちら」なのかもしれない。しかし、「あちらにも」とあるから、「こちらにも」「しづかな村」があるのだろうか。うたっている小鳥は「青い翼」をしているから「幸福の青い鳥」(メーテルリンク)なのだろう。それは、ねがったしあわせが、いちばんちかくにあることをしめしている。とすれば、「ここ」は、「あちら」にもあるし、「こちら」にもある、ということなのだろうか。あるいはまた、「それらはすべてここに ある と」わかった詩人はいま、「夢みたもの」や「ねがつたもの」を見つけることができたのだろうか。

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