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割れてしまう卵であったとしても。―—共通テスト感慨 | 20220130 | #フラグメント やがて日記、そして詩。25

共通テストのあまりよくないニュースが相次いでいる。

地震やコロナの感染拡大、異常気象を含めて、これだけ世界が不安定な情勢にあるなかで、全員同じ試験を、同じ条件で、同じ時間に受験しようとするシステム自体がもう限界なのではないか考えてしまう。

通信技術も飛躍的な革新が起きていて、何もかもが小型化・誰もが常時オンライン状態で生活しているなかで、完全オフライン状態を作りだし、公平公正に試験を受けるというのは、それだけでちょっと時代錯誤感があるように思う。

そもそも「センター試験」から「共通テスト」へと名称は変わったのも、こうした「時代」の変化への対応なのだが、試験の時期や運用方法はさほど変化していないので、一般的な認識としては何も変わっていないというのが実情だと思う。

言い分としては、突然、試験時期や内容を変更をすると、高校のカリキュラムの編成やら受験産業に多大な影響があるので微調整を加えながら変えていく、ということなのかもしれない。来年度から一斉に受ける共通のテストはやめます!なんてことになると、きっととんでもないことになるだろう。

とはいえ、ある意味ではこの国の「教育」を変えるには、「共通テスト」のみならず全員同じペーパーテストをうける「一般入試」「一般選抜型」はやめます!くらいじゃないと、どうにもならない気がする。

昨今は「偏差値教育」への疑念や「詰め込み教育」の弊害のようなものが語られつくされて、逆に最低限の「知識」すらついていないのはどうなんだとかいろいろ出てくるのだが、なんにせよ「高校三年生の1月に何か学力の大きな試験がある」では、結局、カリキュラムは試験範囲を網羅することが前提となる。

それでも「思考力だ!」なんていう声があがることで、学校は「知識」+「思考力」のような「アクティブラーニング」みたいなことをやることになって、少し欧米型の「学校」に近づいてくるわけだが、実際はそれで喜んでもいられないだろう。

調べてみると「アクティブラーニング」も紆余曲折あり、昨今はあまり声高に言われることも少なくなった。ある意味では「当たり前」になったとも言えるし、「思考」する時間がとられる分、教科書を終わらせる系のノルマ解消型授業にはそもそもマッチングしなかったのかもしれない。

そうして、ある種「知識」と「思考」が中途半端になった学校の授業で、「知識」をカバーしきれなくなった生徒たちは、結局は、大学受験のときに「知識」が必要となるので、塾に通うことになる。塾はその「知識」の部分に特化して、超絶わかりやすい「知識」の習得を提供する。生徒たちは、「あ、こんなにわかりやすいのに、学校の先生はこんなふうに教えられない!」といった学校をある意味バカにするような風潮が出てくる。実際、僕も予備校の先生こそが、みたいなところはあった。

大学受験がこうなれば、高校受験もこうなるし、中学受験もなんでも、結局は「知識」ですね、みたいなことになるのは自明のことだ。ああ、なんでこんなことになってしまっているんだろうなあと素朴な疑問をもって、外に目を向けてみると、諸外国、さまざまな受験方法があることに気づく。

アメリカは学校の成績のほか、エッセイや推薦書、SAT(学力試験)などを総合的に見て、現時点で優秀かというより将来性を見込んで、合否が決まるらしい。それに、エッセイを見たりするのは、入学審査をする専門のチームがあるらしい。日本のように大学教授が試験監督するようなことはないのかもしれない。

ともあれ、アメリカにも学力試験はあるが、SATなどは年に何回も受けることができるようで、一回勝負というわけではないらしいので、「人生で一回きりの大勝負…負けたら終わり…失敗できない…」みたいな緊張感はなく、何度もチャレンジする精神が育まれそうな感じではある。

こうして見てみると、一見、たいへんうらやましくある受験システムであり、日本の受験もこれに近づいていこうとしている空気感はバンバン感じる。しかし、これはこれで、きっと、「何やればいいの?」「これをやればいいっていうのを教えて」みたいな迷える人がたくさん出てくるのかもしれない。

その点、日本の大学受験は極めてわかりやすい。「センター試験」には教科書の内容がでる。何点くらいとれば合格圏内。対策はこれをやればいい。参考書はこれ。人生に迷っていても、とにかく、これだけ覚えていれば、とりあえず、大学には行ける! 実に単純明快だ。

この空気感のなかで、ある意味もやっとした「総合的に見ますよ」という指標は、人々を不安にさせる。学校システムも、何もかもが、「センター試験」のようなものに最適化(しているように見える)してきたなかで、もやっとしたものにも、何か正解のルートがあるのでは、みたいな模索がはじまりそうだ。なんにせよ、そういう「これをやれば間違いない」というのが、日本の国民性なのかもしれない。

でも、もう「一般入試」やめます。

くらいやって、学校は、ほとんど「探求型」の授業にシフトして、卒業資格は、卒業論文か卒業制作か、そういう何かを「作る」系にして、それが、受験時のエッセイに書けたりすると、ワクワクするような気がする。

なかなか研究が進まない生徒は、教師がヒアリングしながら、「問題」は何かを発見していく。「解決」の能力が足りなければ、補助していく。そういう導き役になっていく方が、教師自身の自己肯定感も維持されていくのではないだろうか。そして、教師・生徒含めて、誰もが「研究」(あるいは「研究者的な視点を身につける」くらい)できるようになれば日本の大学や大学院のレベルも飛躍的に向上するんじゃないかとも思ったりするし、高大接続というか、高校と大学のギャップも埋められるのではないか。

学力試験は何度でも受けて点数を更新できる何か。それこそ、予備校講師のわかりやすい動画授業がいくらでも見られる時代なのだから、「知識」は自習。何度もチャレンジできるという制度自体はとても大事だと思う。

好き放題に言ってはきたが、きっと誰もがこんな教育だったらなあとかそういう理想がありつつも、あまりに現状の産業含めて大きくなりすぎてしまったから、容易に変えられないのだろう。

こういうとき、何か、大きな力を感じる。どうにもできない、大きな力があって、焼石に一滴の水を垂らすようなことしかできない、自分の小ささを感じる。

村上春樹が、「壁」と「卵」のスピーチをしたことがある。壁に投げられたたまごは割れる。作家は、常に「卵」でいるべきだと。それでこそ、「個人の魂」は守られるのだと。それを守ることができるのが「虚構」なのだと。

大きな「壁」(システム)にはばまれて割れてしまう「卵」(個人)であったとしても、「虚構」だけが「個人」の尊厳を保っていく機能を持っている。なんだかそれを聴いたときは感動した。「虚構」のなかでは生きられる。でも、それは「逃げる」とは違うのだろう。「虚構」であったとしても、それを示しつづけることは、「逃げる」こととは違う。こんな「世界」がある。こんな「世界」もあると示し続けることは、一つの戦いの在り方なんだろう。

そんなわけで、いつまでも、割れる卵でありつづけよう。

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