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かよわくたくましいロードノベル:江國香織『彼女たちの場合は』(集英社)

そういえばしばらく江國香織読んでないな、と思って、図書館で手に取った『彼女たちの場合は』(集英社)を借りてきた。2015年から2018年にかけて「小説すばる」に連載されていたものを2019年に単行本化したもの。ぶ、分厚い。472ページ。なんの予備知識もなしに読み始める。
江國香織はタイトルが魅力的な場合が多いが(例えば『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』、『泳ぐのに安全でも適切でもありません』、『抱擁、あるいはライスに塩を』)この本はすごく素っ気ない。彼女たちの場合は、って? 逆に覚えにくい。三宅瑠人の挿画による装丁も、可愛いけれど物静か。

物語はニューヨークに駐在している日本人家庭で始まる。この家の14歳の娘礼那が、ホームステイしていた17歳の従姉逸佳と、旅に出る、と書置きを残して出て行ってしまったのだ。
母理生那は心配しつつも不思議な距離感を持って娘の出奔をとらえている。父潤は半狂乱だ。
そして逸佳(日本の高校をドロップアウトし、高卒認定試験合格後、アメリカの大学に留学するためニューヨークに来て現在は語学学校通学中)の両親は、娘の気まぐれを半ば容認し、持たせてあるクレジットカードも止めずに様子を見ている。クレジットカードさえ止めてくれれば娘たちはすぐに帰ってくると思うのに、と潤は怒り心頭。礼那は、どこに行くにも親が送り迎えしてきたので(自宅の鍵すら持たせていない)、生活能力はない(と親は思っている)、しかしNY暮らしが長いので、英語は超堪能。

設定のあやうさにドキドキする。かよわそうな2人の少女が(そうでなくても日本人は年齢より若く見られるのに)僅かな手荷物を提げて、この車社会の広大な国でどうやって旅をするというのか。どんな危険が彼女たちを待ち受けているのか。
実際、早い段階から2人は危険な目にも遭う。病気になったり怪我をしたりしたらどうするのさ、と思う。でも、旅を続けられない要件が発生したら、それはつまり物語の終わりということだから、この分厚い本が尽きるまで、彼女たちの旅はどうにかこうにか続くということを読者は知っている。

礼那が大好きなジョン・アーヴィングの世界を見るために、2人はニューヨークから地図の右上の方に向かう。
ニューヨークから距離的にそんなに離れた場所ではないけれど、そこは礼那が長く暮らすニューヨークとは全く別の顔をしたアメリカだ。
大昔読んだ『ホテル・ニュー・ハンプシャー』を再読したくなる。小説はその長さそのものも主張の一部である、というアーヴィングの持論を思い出し(それはディケンズからの系譜なのだ)だからこの小説はこんなに長くなったのか、と思い至る。
昔書いた『神秘大通り』の感想

街の空気感、見知らぬ人と垣根なく対話する礼那、その交わりが旅の次の目的地のきっかけとなる。脈絡のない訪問地、言われてみるとそれがアメリカのどの位置にあるどんな街なのか、全く知らない場所ばかりで、観光名所の話はあまり出てこないので、ひたすらに進んでいく2人の道筋を、ネットでアメリカ地図を表示させながら思い浮かべる。
小学校高学年の時にアメリカに住んでいたことがあるので、アメリカ50州の名前を白地図に書き込むことはほぼ完璧に出来るけれど(でも州都の名前はかなり難しい、たぶん半分くらい)、それは有機的な理解ではなかったと改めて思う。

自発的な家出なので、警察は真剣な捜査はしてくれない。じきに力尽きて帰ってくると思った娘たちは1ヶ月たっても帰ってこない。このままだと逸佳の学生ビザは切れるだろうし、礼那は中学校留年の危機に瀕する。
潤の怒りはいやまし、ネットに娘を探していますというサイトを立ち上げ、逸佳の父はやむなく娘のクレジットカードを停止する。しかしその時点でまだ196ページ。まだ物語は半分も来ていない。
2人の強靭さに感嘆し、このロードノベルが更に魅力を増していくさまを堪能する。
クレジットカードを停止したことで、逸佳の父は娘の足取りが掴めなくなり、カードを停止したことを後悔する。本人たちは、現金決済では泊めてくれないホテルが結構あることで、それなりに難儀するが、現金の続く限り旅を続けると決めている。

移動すること、新しい光景を見ること、そこで出会った人たちと対話すること。時折大きな悪意に出会って、それが旅の転換点になったりもしているが、全体に2人の旅は安定した、美化されたものとなっていて、現実離れしているような気持ちは否めないが、それでもこのロードノベルには次の行き先を知りたい、と思わせる強い魅力があった。ネットのアメリカ地図を広範囲で眺め、それから彼女たちのいる都市にフォーカスして眺め、距離感とか周囲の街の名前とか、川の名前を確認したりする。駆け足の物見遊山とも違うが、バックパッカーの旅とも全然違う。並行して、残された家族の生き方とかものの考え方とかも変わっていく。

旅を始めるにあたって、2人で決めた幾つかのルールの中で一番印象的だった「今後、この旅のあいだにあった出来事は、永遠に二人だけの秘密にする」というルールについて、旅の終わりで礼那はこう収束させる。

「あれは、なんていうか、無駄な約束だったね」(略)「無駄? なんでよ」「だってさ」怪訝な顔のいつかちゃんに礼那は説明する。「たとえばこの朝がどんなにすばらしいかっていうことはさ、いまここにいない誰かにあとから話しても、絶対わかってもらえないと思わない?」 (略)「だって、誰かに話しても話さなくても関係なくて、なにもかも自動的に二人だけの秘密になっちゃうんだよ? すごくない?」(pp.452-453)

生活とはまた違う、旅の豊穣さを、この若さで体得した2人の、この先の人生にエールを送りながら、本の裏表紙を閉じたら、本の見返しのアメリカ地図、表紙側は地名など何も入っていなかったのに、裏表紙側は彼女たちの訪れた都市が書き込まれていた。ネタバレが嫌な人は、裏表紙側の見返しは見ないようにするといいと思う。


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