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♯1 依存

私には、小学校からの仲の親友がいる。お互いの家は徒歩30秒、当然同じ公立中学校に通い、近所の同じ公文式教室にも通っていた。高校からは別々になったものの、その後も定期的に私の家で「定例たこパ(たこ焼きパーティー)」を開催したり、誕生日プレゼントを贈ったりして、お互い大学生となった今でも連絡を取り合っている。名を仮にSとしよう。

ある夜、Sと電話をしていた。お互いの大学のこと、Sが来年に控える留学のこと、私の最近の恋愛沙汰と、話が弾む。その夜はお互い口が止まらなかった。そのはずみで、Sは彼女自身の家族について話し始めた。

「お母さんは私とは合わないの。私のことを自分の成し得なかった理想を投影する道具だとしか思っていない。私の目の前で他人を怒鳴りつける。こんなことを話しているのが聞かれたら、いつか、私の部屋にお母さんが侵入して、私、殺されるんじゃないかって。」

嗚咽交じりの、でもどこかか細い電話越しの声に、私もが胸を締め付けられた。今まで同性の親友にすら言うことのできなかった彼女のSOS。それを言語化しようと努力してくれたことに感謝したし、それを初めて打ち明けてくれたのが自分である、という事実にどうしてか責任を感じた。同時に、大学で下宿をしていてなかなか帰省できないために、傍にいてあげられない自分の無力さに呆然とするしかなかった。

小学校のときから真面目で優等生だった彼女。習い事を何個も掛け持ちして、とても多彩な女の子という印象だった。ところが、中学に入ると一変、親や先生への反抗心が露になっていった。親と毎日のように喧嘩して、その愚痴を公文の教室で聞くことなんてしょっちゅう。中学生によくある反抗期ってやつだよね、と軽視するほかなかったが、周りからの評価をあまり気にしなくなったというか、どこか一匹狼な雰囲気を彼女からうっすらと感じていたのを今でも覚えている。今思えば、あの時から彼女なりの危険信号を反抗という形で必死に表現していたのかもしれない。

親は、子どもの前では、親でなくてはいけない。けれども、親は、当然、一人の人間である。親が子どもだったときに叶わなかった夢や理想を具現化するためや、親自身のストレスやフラストレーションの解消のための、一種の「道具」として、子どもを「利用してしまう」親だって、残念ながら存在をしてしまうのだ。¥

究極的に言えば、子どもは、親のエゴの具現化装置、ということ。

こんな子どもが日本に何人もいることは知識としてあったが、自分にとって身近な彼女に起こっている事態だったのは驚きだった。と同時に、今すぐに守ってやれない無力感も抱かざるをえない。

人は、誰か別の人がいないと生きることができない。この話が私にこう教えてくれているように思える。

どうしたら世界には愛があふれてくれるのだろう。

たくさんの愛、とは言わないから、せめてお裾分け程度でも、すべての人類が愛を受け取れる世界はまだ来ないのかな。


電話の終盤に、「就職したら疎遠になっちゃうな」と私。

「……就職して疎遠になるなんて、言わないで。絶対。」と彼女。

ずっと友達でいてほしい、というメッセージでは、どこか足りないような、そんな気がした。

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