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恋文

 貴女へ
 桜を想うとき、いつも浮かぶのは貴女の背中でした。
 一糸まとわぬ姿になったときの貴女の背中でした。桜が咲き、その姿を誇り、一瞬で風に吹かれて揺れ落ちるとき、なぜか貴女の背中を思い出すのです。
『想いが重なるほどに膨らんで咲き誇ってみたもののそれは一瞬でやはり』
と貴女が服を身に着け、小さなハンドバッグの中から鏡を取り出し紅を塗る姿を見ては僕は手に負えない自分に嫌気がさしていました。いっそのこと、咲き誇る瞬間にふたりが果ててしまえば、とも想ったりもして薬局で薬を見たりもしましたが、やはり貴女はそうなったとしても魂が選ぶのは僕ではないと知ったのです。貴女が貴女の中でだけ勝手に最後だと決めて玄関のドアをそっと閉める瞬間、部屋の中を一瞬だけ見た視線が僕に与えられた春だと今も思っています。

 あれから随分と歳を重ねました。重ねるということは重みが出るということで、その重みは軽々しく愛などとは口にできない重石となりました。
 今年はいつもの春より少し開花時期が遅いのでしょう。まだ枯木の姿のまま今日も梅雨のように雨が降って軒下のサンダルも濡れています。
 こんなことを書いていても貴女には届きもしないけれど、こうして書いてみては切手も貼らずに撤去を待つだけの投函口がガムテープで塞がれたポストのほんの隙間からこの書を落とすのです。きっと誰の目に触れることもなく。

*****

 祖父の住んでいた家は郵便局だった。郵便局だった建物の前にはガムテープで雑に投函口が塞がれたポストがある。その日、家を業者に解体してもらう前の最後の点検で私は年老いた両親に付き添うため久しぶりに帰省していた。
 私が子供の頃から玄関の壁に黄色の紐をつけられてずっとぶらさがっていたポストの鍵。
「幸子、もうこの鍵も必要なくなるけれど、最後にもう一度だけポストの中を確認しておいて」
 母に言われて私ははじめてポストの裏側についていた鍵穴に鍵をさした。
 小さな虫の死骸と共に夜の海のように薄暗いポストの中に湿気で歪んだ葉書が1枚、1枚と少しずれながら重なっていた。恐る恐る取り出してみると癖のある右上がりの文字で表には宛名も差出人も、もちろん住所も書いていなかった。1番上にあった葉書を読んでみるとそこには恋文だろうか? ひとりの女性に向けての手紙のような言葉が小さな小さな文字で綴られていた。まさか? と一瞬、脳裏をよぎったのは祖父のことだった。誰かに向けての抑えきれない気持ちをここにひっそりと投函していたのだろうか? 家ではいつも浴衣を着て、子供の頃は微塵も思わなかったけれど年老いてもモデルのような体型をして今思うと相当なイケメンだったように思う。そしてただの偶然なのかその日は祖父の命日だった。

 「この桜の木はどうされますか? 」
 私が立ったままで葉書を見ていると解体業者の人がポストの横に植えられていた桜の木のことを聞いてきた。
「この木はこのままで、できれば解体作業が根に響かないようにお願いします」
 隣りにいた母は静かな口調でそう伝えて、桜の木に向けて手を合わせた。この桜の木は戦争で亡くなった弟のことを思って祖父が植えたと聞いていた。そして、私は建売住宅を探していた友達から
「どんな木であろうと命がある庭木を根こそぎ抜くと何かしらの良くないことが起こると不動産会社から聞いたんだけど、そんなことあるの? 」
ってメッセージが届いたことがあった。私が手に持っている葉書もきっと捨ててはいけないものかもしれない。そう思って母にジップロックの袋をもらって葉書を入れ、私は実家の仏壇の引き出しにそっとしまった。母や父はもう開けて見ることもないだろう。

 今年、まだ開花宣言はされていなかった。今日は祖父の命日でなぜかあの恋文を思い出した。あれを読んでから、私は満開の桜を見上げるたび、見たこともない人の色白な背中の肩甲骨とその下につながるお尻の丸みと少しだけ乱れた髪のうなじを思う。椿とも、朱色の夕焼けとも違う。嫉妬とも初恋の純粋さとも違う。根底に忘れられない誰かがいながらも気持ちを平らにしてその上に誰かを根付かせ、一瞬、幸せを感じる。幸せを感じてもまた尽きぬ悩みが押し寄せるような、その繰り返しが桜と似ているような気がした。

 もう郵便局だった祖父の家もポストも解体され、今私が誰かと暮らすための家をここに建てるのをただ桜の木が待っている。

 両親にも誰にも話したことがなかったその恋文の話を春一番が窓ガラスを揺らしていた今夜、お風呂上がりに彼に話してみた。
 馬鹿にするのか、それがきっかけで自分語りをはじめるのか、聞こえないふりをするのか、私は話す前に冷蔵庫から金麦を取りだして彼に手渡した。

「今はなんだって公開される、公開したくなる時代だから、やっぱりそうやって自分の文字で書いて心の奥に本音を静かにさせておくのがいいのかもな」
「じゃあ、これ!! 」

 私が彼に手渡したのは、もう壊されてしまったポストの鍵だった。なんの価値もない、いれる穴の見つからない鍵。
 夢のような瞬間は一瞬で散る、それでもまたきっと来る、耐えてそこに立ち尽くすだけの強さがあれば。

「桜の木がずっと待ってるの」
 彼にとってはなんのことかさっぱりとわからなかったはずなのに
「じゃあ、桜に見てもらおうか? 」
 そう言ってうろ覚えの実家の住所を検索していた。
 咲き誇るのは一瞬であとはただそこに立ち尽くすだけ。
 それでもそこに色気を感じるのは、きっとあの今でも日の当たらない引き出しの中にある恋文のせいだと私は思っている。
 彼がスマホをスクロールする指を見ながら──私はまた誰かもわからないその背中を引き出しの中から出そうとしていた。

 

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