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【短編小説】遠くの誰かは思えても

 久しぶりに電車に乗った。通勤の朝とは違う気持ちだった。普段は気にもとめない外の景色が目に飛び込んでくる。車内のリュックを背負った学生たちや紙袋を膝の上にのせてすわるおばあさん。僕自身は誰かの目にどんなふうに写っているのだろう?

「あなたは遠くの誰かのことは思えるのに目の前の子供が泣いていても関係ないのね!! 」
 出張から帰ってきた夜、シンクには割り箸やカップラーメンの容器や菓子パンが入っていたチョコが少しついた袋が乱雑に積み重ねられていた。換気扇はつけっぱなして。テーブルの上には保険証とタクシーや病院の領収書が置いてあった。
 幼い子供がよく感染する嘔吐下痢。それが妻にも感染して彼女は僕がいない間、大変だったらしい。
「なんか、大変だったんだな? 」
「大変だった? まるで他人事!! 」
「そんな声を荒らげたら樹(いつき)が起きるだろう!! 」
 出張の疲れもあって、なんでこんな八つ当たりみたいな罵倒をうけるのか、さっぱりとわからなかった。
 本音を言えば、週末が締切の小説のコンテストの推敲を今夜はしたかったのに。

 僕はリビングで野球を見るふりをしてスマホを手にした。
 ツイッターのアプリを開いて
『お疲れ様です、妻の機嫌が悪い。出張で疲れてるのに最悪だ!! 』
 僕は何も考えずにそう呟いた。
『それはそれは災難ですね、お疲れ様です』
『どうかゆるりと休めますように』
 すぐに労いのコメントがついて、僕は『ありがとうございます』すぐに返信をした。
 その間、妻が何をしているかとか、一切と考えずに。
 土曜日の朝だった。
「ごめん、友達がくるから、夕方までどこかで時間潰してきてくれる? 」
「ああ、わかった!! 」
 内心、ラッキーと思いながら、スマホと鍵と財布だけ鞄に入れて僕は朝ごはんも食べずに家を出た。
 カフェを転々としながら、スマホで小説を推敲したり、ランチのナポリタンを写真に撮ってツイッターにあげたり、なかなか有意義な一日だったな、と夕方四時半になって帰りのバスに乗った。

「ただいま」
 玄関のドアを開けると床がピカピカに輝いていて、なんだ、あいつ、やればできるんじゃん!! と思っていたら、どこにも人の気配がなかった。

『少し心を冷やします。自分の貯金から今日は家政婦を頼んで掃除をお願いしました』テーブルの上にはそう書かれたメモだけが残されていた。
 何が心を冷やすだ? アホがっ!! 僕はまた弁当を買いに外に出た。
 僕がここに引っ越してきたとき、まだ幼稚園だった男の子が
「こんばんわ」
 マンションの階段で僕に挨拶をしてきた。
「なんか、大きくなったね」
「はい、ありがとうございます。あっ、クワガタ、弱ってるんですかね? ちょっと草むらへ運びます」
 彼はそう言うと階段の隅にいたクワガタを掴まえて僕と階段を降りた。彼はマンションの外の草むらにそっとクワガタを置いていた。
「なんか、僕よりはるかに立派だな!! 」
「命ですから。どんなに小さくとも」

 命かぁ──。またマンションの中へと入ってゆく彼の背中を見ながら、僕の目の前にシャッターを切るように彼女と付き合い始めた頃の景色が浮かんできた。
 いつからだったんだろう?
 僕がいつの間にか大切に抱えていたのは彼女ではなくこのスマートフォンだった。ベランダには彼女が取り込むのを忘れていたのだろうか、竿のところに積み重なったタオルが見えた。

 僕は足を止めて草むらに置かれたクワガタを見ながら彼女に電話した。
「どこ? 」
「ホテル。どうせなら、楽しもうと思って」
 彼女には実家がなかった。僕の両親とも上手くはいってない。『頼る人がいなくとも二人で乗り越えよう』そう言ったのは誰でもない僕だった。
「今から行くから」
「もういいよ、疲れた。ツイッターで呟けば? 新しい奥さん募集中!! って」
ドラマで見たことのあるシーンだった。自分ならこんな馬鹿なことはしない。心に決めたはずだった。

「お兄さん、ここ席が空いたから座りんさい」
 紙袋を膝の上に置いたおばあさんが僕に声をかけてきた。
「大丈夫です」
「他に誰か来たら立てばええがね」
 おばあさんに強く言われ僕はおばあさんの隣に座った。
 目の前には緑のシートで覆われた崖が、目に入ってきた。
「美しい世界なのにね、人間の都合で土を覆ってシートをかけて、美しい空なのにね、顔もあげずに電話ばっかり見とるけど、後悔せんかったらええね。人生はあっという間じゃけんね」
 何一つ話してないのに僕のことを見透かしたようにまっすぐ前を向いたままでおばあさんは僕に言った。
 
 「遠くの国の戦争のことは胸を痛めるのになんでこんなに身近な人には意地悪なんだろう? 」
 いつか彼女がいっていた言葉がおばあさんに重なる。

「じゃあ、気をつけてね」
 目的の駅について立ち上がる僕におばあさんはそう言った。
「ありがとうございます」
 僕は深々と頭をさげて、市内電車の乗り場へと急いだ。
 生きていたはずだった。
 僕は僕として。
 なのに……。
 久しぶりに僕は夕暮れの空を見た。
 怖かった。
 何か大事なものをごそっと夜に持っていかれそうで。
 いつだって大切な人は失ったあとで気づく。
 遠くの顔も知らない誰かの言葉に癒やされたつもりになって暮れてゆく空はなにかの終わりを告げるようだった。
 僕は市内電車乗り場からタクシー乗り場へと走った。

 今さら──。
 空は呆れたように色を変えてゆく。
 まるで人の心も暮れるように。

 間に合え!!
 何に? 今更?
 彼女の空耳を僕はタクシーの中で必死に捕まえようとしていた。
 

 
 
 

 
 

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