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#102 おいしいごはんが食べられますように

書店で表紙を見る度にほしいなあと思っていた本。

「芥川賞受賞」という文字と共に、だいたいどの書店でも店頭に何冊も並べられていた。

私は文庫本が好きだ。あの、風呂で気軽に読める大きさと、手に伝わるしなる紙の感じ。どこかに出掛ける時に鞄に入れて、結局読まなくたって気にならないくらいのサイズ感と重さ。

だから、文庫本が出るまで我慢しようかな、といつも手に取って見ては戻していたが

金曜日にご褒美として買ってしまった。


帯やあらすじを目にして耳にして、なんとなくわかっていたが、「おいしいごはんが食べられますように」というタイトルから真っ直ぐに連想されるようなほんわか食エッセイでは全くない。

むしろ食に対する反抗、というか、疑問や価値観の違い、食を愛することが迎合されることで、そうじゃない人は悪で不健康であるというような風潮に どうして?と素朴に主人公のひとりが感じている描写も多い。


アンパンマンとバイキンマン。
プリンセスと意地悪な継母。
健気なヒロインとそれを邪魔する性悪女。

子供の頃はこんなふうにハッキリと正義と悪が分かれている作品が多かった。

しかし最近目にするものは、悪が悪にならざるを得なかった背景や、主人公ひとりだけではなく他の登場人物の思いにもたくさん触れるような作品が増えてきた気がする。


3人の登場人物が出てくるのだが、誰が正しくて誰が間違っているとは、言えない。





中学生の頃、とても優しくてかわいくて明るい女の子だと思っていた子に、ある日呼び出された。今仲良くしている子と縁を切って、私たちのグループにはいってくれと。さもないとその仲の良い子を無視したり虐めのような対象にするよ、と。そして選ばなかったら貴方もその対象にする、と。この子は優しくてかわいくて明るくなんかないな、と一瞬で冷めた。

そういった、陰でじめじめした部分を持っているが表面上では明るく優しくかわいい、という人の何が恐ろしいかって、人に話しても伝わらないところだ。

やられた人にしかわからない、近い人にしかわからない、というのは、話す人を選ばなければあちらが被害者のように振る舞って成功しかねないし、伝わっていないなと気付いたときに心底辛い。結局、多くの人は見せ方や言葉選びが上手な方を信じるのか、とぐっと諦めたことが何度かある。

この本と似たエピソードではないのだが、本を読んでいて不思議とこのときの気持ちを思い出した。




ちょっとした違和感に苛立つ、しょうがないのだろうしそれは理解しているけれど苛立つ、その苛立ちの矛先をどこに向けたら良いのかわからない、向けることでこちらが相対的に悪者のようになる、それもいらいらする、

きっと表に出す人が少ないだけで、そういう気持ちを知っている人というのは少なくないのではないだろうか。

この人はこんな人、の’こんな人’、の部分というのは本当に側面でしかないのではないだろうか。


思うけど表現するまででもないか、という気持ちで、でもそういう思いに蓋をしていくことでこの世の仲違いやストレスって積もっていくんじゃないの?というような、言い難いことをずっとずっと絶妙に表現してくれているような小説だった。


私はおいしいごはんが大好きだけどね。

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