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ラヴェルってこんな面倒な人だったんだろうなぁと心底思わされる小説

エシュノーズ「ラヴェル」を読む

ラヴェルという作曲家に対するイメージは、いろいろありそうです。
絢爛としたオーケストレーションから「オーケストラの魔術師」と呼ばれたり、ドビュッシーと並べられて音楽の印象派の代表的な作曲家とされたり、エッジが効いた何かの宝石か鉱石であるかのような硬質なピアノ曲が愛されたり、いろんな好まれ方をしていつつ、でも、何か本質は捕まえられてない感じがします。

あくまでも個人的な意見ですが、私がラヴェルの作品から感じることは、それまでにあった技術や技法をとことんまで追求して響きに応用したのであって、新しい技術を開発した人ではないということ。

バッハが細かな音まで奏者任せにせず装飾音を書き記したように、ラヴェルも奏者にいたずらに解釈されたくないかのように、テンポの変動や音の強弱、音のすべてを自分がそのように演奏するかのように書き込まないと気が済まない神経質さ。それはピアノ曲でもオーケストラ曲でも変わらず、設計図のようなものがもしあるとするなら、骨格も表面もしっかりしていて、その表面にきらびやかな模様を描くイメージに近い。だからドビュッシーのように、それこそ絵画の印象派と比べられるようなややけぶったような茫洋とした響きとは好対照な世界を作り出したといえる。

そういう意味ではラヴェルがドビュッシーと同じ印象派音楽の元祖に近い存在のようにいわれ、似た作曲家に思われがちなのは不思議というか誤解といってもよい。

たしかにピアノ曲を見ると、ドビュッシーとラヴェルはある程度、似た形式を追いかけているようには見える。明らかに1901年の「水の反映」あたりはまさにラヴェルの独壇場で、それがドビュッシーのピアニズムの新しい展開に火をつけたのかもしれないとさえ思う。ドビュッシーの映像第1集、第2集のような作品はラヴェルがいなければ生まれなかったように思えるし、ラヴェルはそれを「夜のガスパール」で一蹴さえしたようにも思える。でもそこでラヴェルのピアノの追求は終わってしまった。なぜだったんだろう?
ドビュッシーはその後に前奏曲第1集、第2集を書き、ついには「12の練習曲」にまで到達してしまったのに、ラヴェルは「クープランの墓」を書き始めて、戦場に行ったりしてズルズル完成を先延ばしにしてしまう。。。そしてそこに見られるのは、この後の管弦楽曲とピアノ曲とのセットになる作品同様、古典的なものへの回帰になっちゃう。。。
その意味では、ラヴェルはピアノ曲にしても管弦楽曲にしても1910年あたりで前進はやめてしまったと極言してもいいだろう。もちろん音楽家、作曲家としてのラヴェルの名声はこの時期には固まり亡くなるまでほとんど衰えることはなかったわけだけれど。

ちなみに、ラヴェルの最後のピアノ曲は1918年に書いた「口絵」というたった15小節だけど5手を必要とする不思議な作品だ。この曲はめったに演奏されることはないけれど、とても不気味な支離滅裂さというか、頭の中の複数のメロディ、妄想を2分弱に詰め込んだような感じがする。この後の小説の話にもつながるけれど、この40歳の頃から後はラヴェルの晩年であり、脳の調子がこの頃から不調というか、なんらかの病が影を落としていたのではないか。。。

作曲家の人生はもちろん作品によって語られるだろうし、その本人が残した文章や手紙、そして周りの人々の証言などによって彩られることだろう。そういうものを集めて人物の一生を描き出したのが評伝ということができる。

最近出た作曲家、音楽家の評伝でもたとえばクララ・シューマンの評伝は、演奏家として、そしてロベルト・シューマンの妻としての相克がどのようなものであったか、そしてロベルトの死後その作品を残すための仕事や子供を育てること、音楽家を育てることへの献身が見事に描かれていた。
ナディア・ブーランジェの評伝も、この伝説的と言ってよい音楽教育者、大量の名を残す作曲家を育てたその生涯(そういえば、ガーシュインはラヴェルにもブーランジェにも入門を断られたのだよねw)、そして一方で女性音楽家としてはフランスでは認められず、アメリカという新天地でこそ花開いたのということ、一方で天才的ながら夭折してしまった妹リリ・ブーランジェの存在にずっと追われ、過度に干渉する母親の世話にも追われて、ある意味、華美な時代を持たず、まるで音楽に仕える修道女のような一生を送った姿を明確にしていた。
このように「評伝」という形式はまさに一生を生まれたときから死ぬまでを生活、創作などをベースに追いかけて描くものだたら、当然その対象をわかりやすくしてくれる。「小説」だったらどうなのだろう?

エシュノーズの「ラヴェル」は全く評伝的な面はありません。それに長さも100ページ程度なので中編小説といってよいでしょう。さらにここで描かれる時間はラヴェルが1927年にアメリカツアーをするときから1937年に亡くなるまでの最後の10年間(52歳から62歳)だけです。
さっきラヴェルは40歳以降は晩年だったのではないか、と書きましたが、それでいくとこの10年は最晩年といってよいでしょう。実際、この10年間にラヴェルは作品は「ボレロ」「ピアノ協奏曲」「左手のためのピアノ協奏曲」「ドゥルシネア姫を慕うドン・キホーテ」の4曲しか残しておらず、1932年の交通事故以降は作品はありません。

この小説はまさにラヴェルの最晩年の時間を切り取ったような作品です。

冒頭の10ページでアメリカツアーに出かけるために家から列車に乗るまで。30ページかけてアメリカにたどり着く1週間の船の中。10ページで4ヶ月のアメリカ滞在を走り抜け、次の20ページでボレロが作られ脳の不調が明確に描かれ始めて、20ページで2曲のピアノ協奏曲を作りつつますます混乱していくラヴェル、そして交通事故が起き20ページで5年後の死へと向かうのです。。。

そんな駆け足で点描的なのに、ラヴェルという人がわかってしまうのがこの小説のすごさといえばいいんでしょうか。

161センチ45キロと痩せて小柄なラヴェル。
ツアーにゴロワーズ(タバコの銘柄)を詰めたトランクを1つ用意するラヴェル。
洒落者でカラフルなワイシャツ60枚、靴20足、ネクタイ75本、パジャマ25着を持ち歩くラヴェル。
マルグリット・ロンなどラヴェルを尊敬する演奏家や崇拝者に世話をされるのを当たり前と思い、すぐに癇癪を起こし、礼は一つも言わず、周りを振り回すラヴェル。
女性関係に不器用で他人と一緒にいるのが苦手なのに音楽に無知な友人とは毎日ご飯を食べて機嫌がよいラヴェル。
エナメル靴が見つからないからと国王が列席する場もキャンセルしてしまうラヴェル。
自分がピアノを弾きたがってでも下手くそでそれがわかっていてもみんなはわかるまいとタカをくくってますます雑な演奏を平気でしてしまうラヴェル。
それでも一方でオーリックやミヨーが批判的なことを言っても、若い時にはそれをしなくちゃいけないんだよ、叩かないやつは単にラヴェルのコピーにしかならないんだから、と言ってのけるラヴェル。

まさに、なんだかラヴェルが見事に描かれているのです。。。。

この小説の内容自体は、さまざまな証言や今までに書かれた評伝などから題材を取っている情報なので全くのデマカセで書かれた小説ではありません。だからまさに見事にラヴェルの時間を切り取り、ミニマムな形で私達に伝えきっている素晴らしいそして理想の伝記小説だと思うのです。

(了)
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