24歳が考える正義と正論と嫌われ者のお話し
どうもどうも、こんにちは。
職場からは
『誰にも出来ないことが出来て、誰にでも出来ることが出来ない』
と評価を下されたことがあるえんりっちです。
いえそんなことはありませんよ?
『誰にでも出来ること』と思われていることの中に
出来ないこともあるというだけです。
さて、それはさておき。
みなさんは正論を言われたことがあるでしょうか?
もしくは言ったことのある人?
それとも両方でしょうか?
正論とは、道理を説く論について正しいものであると評価する呼び方である。事実に関する議論や認識論について用いられることはあまりなく、ほとんどの場合が「**であるべきだ」という当為についての論である。@Wiki
言われて『確かに正論だ』と思うこともあれば
言っていて『うん、これは間違いなく正論だ』と思うこともあるでしょう。
では仮にその言論が正しいとして、果たしてアナタは正義でしょうか?
何が言いたいかというと
『正論は正義だが、それを言う時のアナタは悪である』ということです。
正論は正義
正論を言う人間は往々にして間違っていません。
道理を説く論について『正しいものである』と相対的に評価しているものを口にしているだけなので、間違っているわけがありません。
逆に言えば、間違っているならそれは『正論ではない』とも
言い換えられます。
では正論を言う人間はさながら『正義の代行者』でしょうか?
そうだと良いですね。
誰しも正義に憧れ、自分が正義だと疑わずに生きれたらなんと幸せなことでしょう。
しかしそうはいきません。
正義の組織と、悪の組織がいたとして
正義の組織は『我々は悪の組織を倒す正義だ』と説くのに対し
悪の組織は『我々は正義(悪)の組織を倒す正義だ』と説いたら
おや、おかしいですね。正義で溢れかえっています。
この事から『主観的立場から見れば自分は正義』
ということが分かります。
正論を言う人は悪である
『正しい行いが悪であるわけが無い!』
『それが悪だというなら私は悪で良い!』
なんて言葉が浮かんできます(アニメの見過ぎ)
さて、結論から言うと
正論を言う事は悪ではありません。
正論を言う人が悪なのです。
言い換えるならば
『正論を言う人の心に、悪がある』という事です。
正論を言う人の感情って知ってますか?
私が言ったときの経験と、言われたときの経験から総体的に言うと
【相手を見下す】感情です。
そして思考は凝り固まり、自分が正しいと信じて疑わず、時には変な競争心からか張り合うように相手を非難します。
そして厄介なことに、それを『親切』だと思っている場合もあります。
このような感情が深層にある『正論』は正義足りえません。
正義の皮を被った悪とも言えるでしょう。
かの有名な聖徳太子の言葉を添えておきましょう。
「我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫ならくのみ。」
聖徳太子『十七条憲法』 (『真宗聖典』965頁)
意訳:私が聖者であるわけではない。彼が愚かであるわけではない。
お互いに凡夫でしかないのである。
聖徳太子が制定したとされる『十七条憲法』の第十条にある言葉。
ここには対話の心構えが示されています。
人と接するときに気をつけたいこと
先程、正論を言うこと自体は間違っていないと表現しました。
なので正論を言うな!ということではありません。
大事なのはそれを告げるときの『心の在り様』です。
きっとこれを見ている人も、書いている私も
聖人などではないはずです。
例え能力に優劣があったとしても、思考の方向性が違っていても
等しく普遍的な『人』であると言えます。
なので『正論は時として凶器になる』という事を念頭に置いて
人に正論を告げられるようになると良いですね。
相手も頭ごなしに否定をされ、正しいことだけをぶつけられても
納得はすれど怒りも込み上げてくるはずです。
それが人と言うものです。
それを理解せず、意識せずに言ってしまうと
ついつい正論を言う側も熱くなり、口調は過激になります。
相手からも
『アイツは何でもかんでも正論で捻じ伏せようとしてくるから嫌い』
という見方をして関係が悪くなり、人付き合いが円滑にいかなくなります。
以上のことから、『心の大切さ』を知っておくようにしたいと思います。
それではこれにて。
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