プレゼンテーション1

「JOKER」と「人間失格」

この書き込みはネタバレを含んでおりますので、ご一読の際はお気をつけ下さい。乱文または曲解がところどころに見受けられるかもしれませんが、あらかじめご了承の上で拝読いただけると幸いです。近似する内容の記事をいくつかお見かけしたこともあり、別に筆者が載せる必要もないのかなと思っていたのですが、今回は備忘録として書き進めていくことにします。

◼︎「JOKER」あらすじ
アーサー・フレックはうだつの上がらないピエロメイクのコメディアン。
しかし「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸に、
理不尽な思いをしながらも懸命に芸人を全うしていた。
貧富の差が激しいゴッサム・シティで被虐を繰り返された純粋な男は、
やがて心を狂気で満たし「ジョーカー」の人格を作り上げていく。

◼︎「人間失格」との関連性
「なんというか、人間失格みたいだ」
それが筆者の脳裏に過った印象でした。

アーサー・フレックが「道化師」となるためのピエロメイク。これは単なる(後のジョーカーも兼ねた)トレードマークに留まらず、アーサー・フレックという人物の生き写しであることにふと思い至ったからです。

覚えている範囲で挙げていくと、

「狂っているのは「俺」なのか?「世界」なのか?」
「お前らは俺が道端で死んでいても、平気で踏みにじるだろう」
「いい考えが浮かんだ、でもお前には理解できない」

のように、他人と比較した自虐的な台詞を、作中で何度か口にする姿を確認できます。

それだけではなく、生まれつき身長が極端に低い障害を持った知り合いに対して、周囲の嘲笑に合わせてわざと大げさに笑ったり(人目に触れなくなるとすぐにやめる)、
オーディエンスのリアクションを見てから自分の反応を被せたり、世間体に迎合する瞬間を幾度となく目にしました。

ジョーカーとなる前、アーサー・フレックという人物は文字どおり「道化」を演じることが処世術となっているように見て取れたのです。筆者はこれに、太宰治の代名詞とも言える一作、人間失格の中で描かれている主観人物「大庭葉蔵」の面影を連想させました。

大庭葉蔵とは、人間失格の中で描かれる中心人物です。
東北地方の名家の大所帯で末っ子の大庭葉蔵は、厳格な父のもと常に周囲を信用せず、他人の振る舞いに怯えながら生活しており、後にある一枚の絵画との衝撃的な出会いから画家を志すようになります。そして自然と女性を惹きつけるほどの美形男子でした。

一見すると、家柄や出自に類似性はなく、むしろ対照的です。
ここで下記の人間失格の一節をご覧ください。

《人間失格/著・太宰治/原文抜粋》
自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、輾転し、呻吟し、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。

大庭葉蔵は名家の生まれでありながら己の陰鬱な本性を悟られまいと、常に自分と世間との間に一線を引き、そして自分の身をコミュニティに繋ぎ止める最終手段として、無邪気を演じる「道化」にひたすら徹します。

対してアーサー・フレックは、不意に笑いが止まらなくなる症状を元から抱えていましたが、自発的に笑う瞬間に限っては「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」という、彼の大義が強迫観念となって発現されているような気がしてなりませんでした。

加えて、「JOKER」に内包するいくつかのキーワードを並べてみます。

「道化」「レッテル」「世間体」「薬物依存」「心的外傷」
「虐待」「人格障害」「喫煙」「左翼」「ネグレクト」

これら上記のものは、人間失格において大庭葉蔵が生涯にわたって直面する事象と共通しており、疑心暗鬼に囚われた要因でもあります。他にも「罪を犯してしまった後にひとときの幸せを掴みかけると、間もなくどん底に突き落とされたり」「周りから狂人だと判断され精神病院に連行されたり」など、物語が進むに連れて共通点は次々と浮上してきます。全く同じ性質のものと一概には言えませんが、それでも決して無視することのできない「JOKER」と「人間失格」の通底めいた繋がりを、鑑賞しながらひしひしと感じていました。

◼︎突きつけられる世間という個人
この作品を観終わった時のおおよその見解は、
「被害と加害は一対ではなく、表裏一体であること」
だと思われます。

しかし、筆者が上記で述べたことを踏まえると、人間失格と並ぶ要素である「一人と世間の溝」がどうしても気がかりでした。

世間的に評判の良い人物の怪我は「悲劇」だが、
世間的に評判の悪い人物の怪我は「喜劇」である空気や風潮が、何となくを理由として世の中には存在しています。
常に他人と比較して相対的に築き上げている「世間」という定義の前に、
一人一人の痛みは尊重されてはいけないのか?

という問いかけに行き着きます。

例えば、ニュース番組やネットなどを見れば、日々どこかで何かしらの犯罪が起きていることを私たちは実感します。そして、報道されるその当事者に対して、一体どのような感情を抱くのでしょうか。
「恐怖」「不快」「不安」「焦燥」「用心」「絶望」「同情」「哀惜」「憤怒」
表現できる言葉はたくさんございますが、それらは全て主観によって定められている価値観であり、寄り集まったものが一種の世間を構築していきます。

果たして、感情移入するだろうか、
やはり、他人事だと思ってチャンネルを変えるのか、
けれども、まさか自分に限ってと安心するだろうか、
はたまた、犯人を侮蔑するような言葉を口にするのか、
それとも、事件の重さを比較して是非を議論するのか、

ここで少し問題だと感じるのは、受け取り方の自由を与えられていながら、やがて過半数の世論が正当性を主張し独り歩きをして、当人の意思が置き去りにされてしまうことです。

私たちの倫理観が標榜している一つの真理は、
意図した犯罪などあってはならないという、根底の理性や良心。
それでも、罪を犯してしまうほどに蝕まれたその人の心は、唾棄するのが最善なのか。
今までその人が感じてきた思いは、誰からも理解されてはいけないのか。

「個」の塊である「全」
「全」から見た「個」
「個」から見た「全」

この「JOKER」という作品は、現代に蔓延った自他のモラルに対する無理解への意趣返し、そしてエクスキューズでありカタルシスではないのだろうか、というのが筆者の推測でした。

決して肯定的に理解することを促しているわけでもなく、聴き取ることのできない阿鼻叫喚の振動だけが耳の奥へと伝わる禍々しい感覚を生々しく刻んでくるのです。

余談ですが、人間失格の中で大庭葉蔵は、堀木正雄という友人と二人で、
あらゆる名詞を「喜劇名詞」と「悲劇名詞」に分類するという遊びを作って楽しんでいます。
(本文を例にすると、「薬」はそれが「注射」の場合、「針」なので悲劇名詞という具合です)

◼︎ヒーロー=騎士の不在
そんな中、疑問を感じた観客の方もいると思われます。
なぜ今作には「ヒーロー=騎士」がいないのか、という点についてです。

アメコミなのにヒーローが出ないのはちょっと…と落胆する声は多少なりとも耳にしました。今回、そういった役回りは公的機関の警察のみで、いわゆるバットマンのような自警的な守護者はおりません。

誕生を仄めかすシーンはありましたが、監督を務めたトッド・フィリップスは「JOKERはDCユニバースと繋がっていない」と単独作品であることを公言しているため、この世界線でヒーローの種が芽生えるのかどうかは不明です。

改めると、ジョーカーといえば、誰もが知るバットマン最大の宿敵として名高い殺戮のピエロで、私たちの記憶に新しいのは、クリストファー・ノーラン監督のダークナイト三部作に登場するジョーカーでしょう。
ジョーカー演じるヒース・レジャーの生理的嫌悪感を抉る立ち振る舞い、そして闇の住人にしか到達しえない美徳にうっかり酩酊してしまうような、手に汗握る怪演っぷりは今でも脳内に焼き付いています。

では今作にバットマンのような存在を登場させるとどうなるのか。当然ゴッサム・シティの秩序を正すため、その元凶を問答無用で制裁するはずです。ヒーローとヴィランの関係性は常に明確な「善と悪」の対立だからです。
人間社会の歪みから生まれたジョーカーは、その時点で物語の上では「倒されるべき悪」へと成り下がり、ジョーカーに至るアーサー・フレックの苦悩や不遇が茶番になるどころか、中核のテーマを崩してしまう恐れがあるので、それらの理由からヒーロー=騎士を出さなかったのは英断だったと個人的には感嘆しています。

◼︎最後に
長々と持論を書き連ねてしまいましたが、筆者の拙い文面にここまで付き合ってくださった方々にはお礼を申し上げます。この記事には間違いなく異論できる穴はあると思われるし、もしかしたら筆者にとって都合の良い解釈もあったかもしれません。

トッド・フィリップス監督はこのような言葉を残しています。

「あなたがこの映画をどのようなレンズを通して見るかによって、それは決まるのです」

一人ひとりが持っているモラル、知見や経験によって、JOKERの仮面は形を変えます。

大庭葉蔵は、幸福も不幸も失った自らに人間失格の烙印を押し、最後に廃人は喜劇であると無気力に笑いました。
ジョーカーは、悲劇だと思っていた自分の人生が喜劇だったことに気付き、燃え盛る炎と民衆の輪の中で笑みを作りました。

そして現代において、SNSやネットの発達に伴い世間という所謂「人間」の世界がより強固になったことにより、個人の持つ痛みは普遍化の一途を辿るばかりです。

しかし、今一度それらは個人の特権であることを、私たちは考える必要があるのかもしれません。

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