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「やがて秋茄子へと到る」堂園昌彦

「やがて秋茄子へと到る」堂園昌彦(港の人)を読んだ。

この歌集を初めて本屋で見かけたときから抱いている印象は「美しい本」である。きらびやかな美しさというよりは余分な装飾がない質素な美しさだ。表紙の雰囲気はもちろんのこと、試しに本を手に取ってぱらぱらとページをめくっても美しさは揺るがなかった。しかし私はその時にこの本を買わなかった。そして長いあいだ、手元にない歌集を「あの時買えばよかった」と思い続けることになる。やっぱり買うべきだったと思った時には本屋から消えていた。その次に思った時、ネット書店で在庫を探しても見つからなかった。出版社にも在庫が無いようだった。

今年の夏に再版されるときいて、待っていて良かったと思った。フェアを開催してくれた紀伊国屋書店に感謝を示して紀伊国屋のオンライン書店で購入した。


本を開いて一首目が”美しさ”という言葉から始まる歌で頬がゆるんだ。相思相愛でしょうか。

美しさのことを言えって冬の日の輝く針を差し出している

p.8 ーやがて秋茄子へと到る


この歌集には14の連作が収録されている。私が一番好きなのは「感情譚」のセクションだ。

文字は花。あなたの淡い感情を散らした紙も枯野を祝う

p.129ー感情譚

この一首、”文字は花。”と言い切る強さに惹かれた。そしてこの歌の後には花にまつわる言葉が頻繁に登場する。それらを”文字は花”の方程式に当てはめてメタファーを透かしながら読むと、創作の歌であり、創作に伴う感情の歌たちなのだと理解した。

生きるから花粉まみれて生きるからあなたへ鮮やかな本と棚

p.130ー感情譚

言葉を生業にして生きる人が浮かんだ。

文字が花ならば、あらゆる本は花束だ。この歌集もそうなのかもしれない。

私は本も言葉も美しいものであって欲しいという願望を少なからず持っているのでこの解釈を気に入った。


あるいは花が咲いたあとに実った秋茄子とは短歌のことだろうか。

生きている限りは胸に茄子の花散らし続ける惑乱にいる

p.140ー感情譚
秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは

p.25ーやがて秋茄子へと到る

私たちは”どうして生きているんだろう”と考えているときは死のことを考えていて、”どうして死ぬのだろう”と考えているときは、逆に生について考えているのではないだろうか。秋茄子からは生活の匂いがする。

この歌集を読んでいると日々を生きることそのままが美しいことのように思えてくる。日常のそこかしこに花はあるし光は差している。


紀伊国屋書店WEBストア(在庫僅少)


amazonも今は在庫があるようだ。


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