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わたしはわたしの傷であり、あなたはあなたの傷である

Ma blessure existait avant moi, je suis né pour l’incarner.  
わたしが生まれるより先に、わたしの傷があった。わたしは傷に肉体を与えるために生まれたのだ。(ジョー・ブスケ)

ジョー・ブスケという詩人がいた。彼はフランスのナルボンヌで生まれた。ブスケは21才のときに第一次世界大戦に参加して、負傷。半身不随になり、以降の人生をすべて、鎧戸を締め切った寝室のベッドの上で過ごした。この記事の表題は、ブスケのつぎの言葉に由来している。

ときに運命は、ひとりの人間を傷つける。彼が苦しむ光景は、それを眺める者たちに、傷を負っていない人間などいないということを教える。個体性そのものが傷なのである。
こうした傷は癒えることがない。人間は傷のまわりで変容し、そこに刻み込まれた消去不可能な描線を浮かび上がらせるだろう。

ジョー・ブスケ『傷と出来事』河出書房新社、191頁

個体性とは傷である。その人の傷が、その人を個体として成り立たせる。こうした息を呑むような主張がブスケの魅力だ。このテーゼはどういう意味だろうか。個体性とは、あなたとわたしを分かつものだ。あなたの傷をわたしは分からないし、あなたはわたしの傷がわからないだろう。傷はその人に固有のもので、けして共有できないのだ。

傷と同様に、痛み、苦しみも共有不可能なものだ。私たちは、他者の痛みをけっして理解できない。同じように感じることもできない。ただそれに注意を向けることしかできない。この弱さと困難さは、私たちの存在のもっとも根底にあるように思える。

弱さと困難さ。傷の共有不可能性。これがなぜ大事で、なぜこれを考えなければいけないのだろうか。長くなるが、ひとつ引用をしたい。精神科医であり社会学者の宮地尚子さんは、著書のなかでつぎのように語っている。

人間には、一人では生きられないにもかかわらず、一人であるという弱さもあります。私たちの身体は共有不可能です。「誰かの身になってみる」ことは、本当の意味ではできません。痛みに苦しむ人から、痛みを分けてもらうすべはありません。自分が苦悩に耐えているときも、それを誰かに預けることはできません。そんな孤独な存在でありつつ、人間は根本的に社会的な存在であり、誰かとのつながりなしには育ちもせず生きてもいけません。そして、そのつながり、関係性の中で傷つけあってしまうという人間の弱さもあります。 

人間は皆、不完全です。弱さだけでなく、愚かさや身勝手さを抱えています。そもそも、人は皆、人生の初心者です。すべての人生は一回目です。たとえ人間社会で知識が蓄積され伝達されるとしても、学び、成長していくには時間もかかるし、努力も必要です。子どもへの虐待は大きな課題ですが、子育ては簡単なものではないし、支援なしでできるものではありません。人間は不完全な人間に育てられ、不完全な人間となって、次世代の人間を不完全に育てていくしかないのです。こういった弱さや不完全さの認識は、自然や宇宙に対しての謙虚さ、他者(や他の生命体)への寛容さ、優しさ、ひいては平和な社会への希求にもつながりうるはずです。

宮地尚子『トラウマ』岩波書店

人間はみな不完全で依存的である。とはいえ私たちのなかには、依存は悪であり、自立、独立、自律を目指すべきでだ、という感覚もあるだろう。スコットランドの哲学者、アラスデア・マッキンタイアによれば、この道徳的な感覚の起源はアリストテレスまで遡る。アリストテレスは、徳のある人のモデルとして、彼自身のような知的労働に従事する男性を使って考えてしまった。社会には女性や、奴隷、従者、農民や漁師などの生産労働者がいたにもかかわらずである。そのためアリストテレスは、「受苦と依存をしかるべきしかたで認識できなかった」のだ。(マッキンタイア『依存的な理性的動物』9頁)

結果として私たちは、自立、独立、自律こそが徳だという観念を2000年以上継承してきた。近年ではケアの倫理という倫理学の分野で、こうした歴史が見直され、依存をどのように考えるかが議論されている。

しかし依存を考えることはむずかしい問題だ。たとえば障がいを負って介護が必要な人がいる。その人の周りの人間が、人生の多くの時間を介護に費やすとする。このような一方的な依存関係は、はたして平等だろうか。否、と多くの人が答えるだろう。依存を肯定することは難しい。それでも、これにひとつの答えを出した本が存在する。

エヴァ・フェダー・キテイというアメリカの倫理学者である。彼女には重度の知的障害と脳性麻痺を抱えた娘がいて、その省察から『愛の労働』という本を著した。

キテイは次のような議論をしている。ナオミ・ガーステルという社会学者が、実際に介護を行っている女性たちに調査をした結果、彼女たちの多くは「私がそうすることを期待されているから」介護をしていると答えた。たとえば、娘が母親を介助する場合、それは元気だった頃の母親が祖母を介助していたから、自分もそうすることを期待されているのだ、と答える。

ここからわかるのは、依存は「依存する人」「依存される人」のふたりの間だけの関係ではないということだ。「依存される人」は、さらに他の人に依存している。たとえば、介助をする女性が、周りの友人や、その人の親、子どもなどに支えられて生きていることがありうる。その女性は親に世話をされて生まれてきたのだし、老年になって同じように誰かに世話をされるだろう。このように見ると、依存関係は必ずしも一方的なものではない。

ひとつの依存関係だけに目を向けると、それは不平等なものとして現れてしまう。そうではなくて、その依存関係の周りにある沢山の依存関係、世話をして世話をされる関係、支えて支えられる関係に目を向けなければいけない。

共同体のメンバーを結びつけているこの義務の連鎖は、与え手と受け手の間に互酬――お互いさま――の感覚をつくりだし、誰かがケアを与える位置にいるときにはそれを行い、その人が他の誰かを必要とするときには、ケアの与え手として適切な人がそれに答えるという期待を生じさせる。それは、つながりのなかに、他者への義務のなかに平等をとらえる人々の互酬関係である。

エヴァ・フェダー・キテイ『愛の労働 あるいは依存とケアの正義論』白澤社

あなたが誰かを世話しなければいけない、という状況に置かれたとき、あなたもまた誰かに育てられたということ、つまり自分が誰かに依存して、ケアを受けて生きてきたこと、これらを意識することで、その人に正しく配慮することができる。それは不平等ではない。あなたがその人を世話した分、あなたのことを誰かが世話してくれるのだから。

まとめよう。傷は共有できない、というところからこの文章ははじまった。いつでも自立した健康な人間、というものを想定して話をするのではなく、傷だらけの弱く依存的な人間、というものが私たちの本来の姿なのだ。こう考えることはいっけん違和感があるかもしれないが、そうしないと見えてこない倫理や生き方がある。

この文章を書いたきっかけは、わたしが去年1年間を通して交際していたある女性とすこし前に別れたためだ。ひとを傷つけたくはない、と思っていたにもかかわらず、大事なひとをどうしようもなく傷つけた。ひどく後悔して、わたしもまた傷ついた。それまで、自分が十分に自立しているとわたしは思っていたが、まったく違った。傷を負っていない人間などいない。ブスケは正しかった。


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