コンパッションから慈悲へ 仏教の真髄の探究
ダライ・ラマ14世は、
コンパッションについて、
「自己と他者の苦しみを感じ、
それを取り除こうとする深い関与であり、
他者へ愛情を示し助けようとすることで、
内面的な強さが高まり、
恐怖がなくなる」
と表現すると、前回書いた。
https://note.mu/ensou_biz/n/n1232edcf7c8e?fbclid=IwAR2NZ_-M2xHfnJhMrql3YqwxN8OFp8u0caiNBwdtXzkPklRzRkMY1PEs8zE
そして、それはそのまま、
仏教徒の徳目である、
四無量心につながる。
無量(無限)の人々を悟りに導くことなので、
四つの無量の心と呼ばれる。
慈悲喜捨の四つ。
慈:与楽
悲:抜苦
喜:共喜(他者の楽を妬まないで喜ぶ)
捨:平静(好き嫌いで他者を差別しないで平静でいる)
目の前で老人が転んだら、
とっさに手を差し出すだろう。
その感覚が慈悲である。
それは、好き嫌いを越えている。
慈悲とは、好き嫌いとは次元が違う。
一般的に捉えている、
優しさとも違う。
慈悲喜捨のなかで、
特に注目したいのが「捨」。
衆生に楽を与え(慈)、
衆生から苦を抜き(悲)、
衆生の喜びを共に喜ぶ(喜)。
ここまでは、「優しさ」とも重なってくる。
「捨」となると、
質感ががらっと変わる。
好き嫌い、正しい間違っているを越えて、
平等に観察して、
囚われない、
平静さ。
これが、「捨」。
これは、分けない、分別しない、
不二の境地。
どの仏法もすべては、
不二の教え。
一切の相対からの自由。
相対の世界にあって、
相対に囚われない。
比較して、
優位に立ったり、
落ち込んだり、
ではない世界。
衣食足りていない人には優しく、
衣食足りている人には嫉妬、
ではなく、
全ての人が対象になる。
差別が消え、
相対する、対立する、
二つの葛藤が、
ここで消えていく。
スピリチュアリティでいわれるところの、
ワンネス(oneness)。
つまり、慈悲において、
不二の境地、「捨」が肝になる。
「捨」を根底にして、慈悲喜が実践される。
もっといえば、捨があって初めて、
慈悲喜が実現できる。
もう一度、ダライ・ラマ14世の言葉に戻ろう。
「自己と他者の苦しみを感じ、
それを取り除こうとする深い関与であり、
他者へ愛情を示し助けようとすることで、
内面的な強さが高まり、
恐怖がなくなる」
このコンパッションの定義の深さが見えてくる。
そう、自己と他者の区別が消滅しているんだよね。
真の慈悲は、「捨」から立ち上がる。
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