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としえおばさんとミョウガ採り

 

父のオバにあたるオバさんが好きで、ときどき遊びに連れてってもらう。
基本老人は好きだが、としえオバさんは老人だけど、なんというか意識が比較的ひらけているひとで、そこらへんの若者よりうんと気が合う。
田舎の古民家に一人、移り住んで10年らしい。
 
わたしは田舎が好きで、田舎も自然も好きだけど、虫とかドロドロに汚れるのとかは大嫌い。
野菜のなっている場所とかすごく興味があって見に行くんだけど、肉体労働はいやでぼんやりしていると、大抵老人は怒る。
「そんなことも知らんのか!」
「蚊の一匹や二匹くらいでぎゃあぎゃあして!」
 
まあ別に、それはそれでいいんだけど、としえオバさんの好きなところは、
「そんなことも知らないの?」と言いつつ、わたしがみょうがの採取に興味があるとか、おばさんの浸けたみょうがの梅酢漬けに興味を示すことが嬉しくてしかたないと言った様子で、怒られてる感じがしないこと。
あとは、おばさん自体、もともと狭苦しい住宅街から自ら好んで田舎に引っ越したので、若者のもやしっ子が何も知らないことを
「わたしも知らなかったよ!」と言うところ。
あとは、汚くて古い古民家に転がっている本が、「スティーブ・ジョブス」と書いてあるところとか。
 


 ○
特定の人間が作る食事を好きになることがある。
美味しいとか、このひとは料理が上手だとか、背景はあまり知らずとしても、一口食べて、それが「よいもの」だということがわかるとき。
 
そうするとわたしは飼いならされた猫のように、そのひとになつく傾向があるとおもう。
おばさんの料理もそんな感じだったとおもう。
と言っても別に、これまで数回しか遊びにいったこともないし、そんな豪勢な食事を作ってもらった記憶はない。
ただ、さらっと口にいれたミョウガの漬物が、「ああ、」といった具合に、言葉なしに納得できる感じがあるみたいに。
 
今日もそして、ふだんミョウガはおろか、漬物とか市販のものなどほとんど目もくれない私が、青じその敷いた上に綺麗に盛られた赤いミョウガをパクパク食べた。
塩辛くて、たくさん食べられるようなものでもないのだけど、おいしい。
そういうときは「おいしい」という感じとはちょっと違う感じがする。
 
おいしいはおいしいのだけど、「おいしい」よりはちょうど、英語でいう「おいしい」が
[good]で表現されるのと似たような感じ。
 
それはそのくらい平たくてシンプルな言葉しかあてはまらないくらい、深淵だったりするのだとおもう。
 

これおいしいねえ〜と食べたわたしにおばさんは嬉々としていた。
たぶん遠い親戚の孫娘みたいな人間が来て、まさかそれを気にいるとは思わなかったのか、嬉しそうに庭で採って自分でつけたことを言った。
 
おばさんの好きなもうひとつのところ。自分で作ったことを嬉しそうにアピールしてきても、全然いやらしくないところ。
それで梅酢でつけてあるらしく、なるほど外国には絶対に存在しない掛け合わせと、日本の夏の真骨頂だと素直におもった。
 
ミョウガを持って帰るか聞かれたので、まあ家で自分が梅酢に漬けてそれを日常的に食うとは思わなかったけど、たまには良いかもしれないと思いイエスと首を縦に振った。 
昔、バーモントのファームで初めてブリュッセルスプラウト(芽キャベツ)が実際になるところを見て結構衝撃が走ったのだけど、野菜というのはスーパーで並んでいる姿と、それが育ってもぎとられる前の姿というのはかなりギャップがあることがある。
それのギャップがわたしはかなりツボなのか、ビニール袋に入ってキャッチーな名前と共にステッカーを貼られた姿しか知らないバナナとかが、台湾で実際に上むいてそこらじゅうになっていたときとか、圧巻でその場から動けなくなった。
 
そんなわけで、虫も嫌いだしドロドロになるのも嫌いだが、ミョウガがなる様子には興味がある。
 
おばさんは夕方の夏の田舎、「ミョウガはね〜!土からじかに生えるのよ〜!!おばさんもここに来るまで知らなかったんだからね〜」
と言いながら庭の端っこにわたしを連れ出した。
 
日本の畑というのは得てして地味である。というかは育ててる野菜によって、個々の畑の方針によってワイルドか、手が入ってるかは違えど、少なくとも私の知っているアメリカとニュージーランドのオーガニックファームに比べると、文字通り田舎臭い。
そしてミョウガというのは、さらにそんなワイルドで地味な畑のなかでも、「汚いのを好む」らしかった。
つまりは雑草やら周りの草やらを丁寧に取り除いたり、綺麗に整えた土壌を喜んで生えるのではなく、ザクっと野生のままにしておいたほうがよいらしい。
 
というわけで、ミョウガの生息地は、畑もなにも、知らなかったらただの草ボーボーの、畑とも言い難い野生地だった。
腰くらいまである太めの茎に、どこにでもありそうな特徴という特徴のない葉っぱがついたものがまっすぐに伸びており、全然よくわかんない草もボーボーに生えていた。
これがミョウガの葉っぱね!これが花だから見つけやすいでしょ!
と草をかき分け土の中からおばさんが引っこ抜いたものは、確かにミョウガであった。
 
でも目をいくらこすっても、「ほらここにも」「ここにも」と言うオバさんの尻横目に、それらしきものを判別する力はわたしにはないようだった。
 
それよりも何よりも今この瞬間に蚊にさされないかのほうが気になって
「かゆい」とぶつくさ言いながら、おそるおそる教えてくれた場所のひとつを、指でもぎとった。
 
こう、ハーブを爽やかに茎からパリッともぎ取るあの感じはなく、とりあえず手の感触よりも全身を取り巻くジャングルの草木の存在のほうが気になって、あとは足のサンダルのあたりがいつも通り土でドロドロな感じで気持ち悪く、いつ何時蚊に刺されるかの全力抵抗。もぞもぞしながら上の空で
「取れたよ」と言うわたしだった。
 
いくつも自分で採取する気にはまったくなれず、とりあえずミョウガがこんな風になっている、ということを確認できただけで満足だったが、とりあえず、一体なにがどうなってるのかには食いついて、
これは、そもそも、何なのか?とオバさんに聞いた。


一見花開く前の蕾みたいなかたちをしているけど、今日はじめて見たのはミョウガの花。それはミョウガの先っぽに、なにかの間違いで生えた遠慮がちな一本の毛くらいな様子で、なにが主役でどれが脇役なのかすごく謎めいていた。
一応それは「実」にあたるらしい。
 
それよりなにより身体中が痒い気がしてたまらなくなったわたしは、あとずさりしながら
「へ〜」「ほ〜」とぼんやり突っ立った。
 
ここで通常の老人ならば、ピシャリと私の生ぬるさに突っ込むところを、としえおばさんは私の真意を汲み取ったかごとく、
「アンタが採ったら一年かかりそうだからあとは私がやるわ」
と言った。
 
 
やっぱり、としえおばさんから言われると、胸がキュンとした。
 
 
さっさと気を使わずに先に家に入り、古く汚い台所でミョウガを洗った。
夏の日本の食事に、紛れもなくパンチの聞いた風味を追加する役目の、割と主張の強いミョウガ。
その成り方は、本当に地味だった。
 
あらためてまじまじその姿を眺め、緑とピンクのコントラストと、たけのこを思わせる形のことを想い、そのあと昔アメリカにいたときに見た生のアーティチョークのことを想った。
数秒のあいだに場所と季節を行き来したあとオバさんが庭から戻り、ミョウガをザバッと勢いよく水の中に入れた。
 
洗い、漬けるまえに乾かすから「水を切って」と言っていたオバさんは、そのまま言った通りにミョウガを洗って、それを一個づつ勢いよく振った。


水を切るその様子は、とても力強く、普段どれだけ可愛らしく慎ましやかな暮らしをしていても、「台所での生きる力」のことを間違いなく心底知っている人間の、力強さを物語っていた。


つまり、ピッピ、と軽くつまんで振る感じではなく、腕のスナップを全力で利かせ、最小限の動きから最大限のみずきり効率を生み出すプロフェッショナルなスナップのこと。


惚れ惚れした。
 
 

おばさんは人に気を使う。
帰りに一緒に街まで送る予定だった今日だけど、結局おばさんはあれこれ不自然な理由をつけて、明日バスで行くと言った。
 
わたしが採ったたった一個のミョウガと、おばさんが採ってくれたいくつものミョウガが袋に入れられて、「おいしい」と言った梅酢漬けも全部、持たせてくれた。
 
その場所から帰るとき、いつもわたしは何か大切なことを思い出す。
 
実の祖母の家に出入りしても、一度も感じたことのない、年老いた人間が実に自然に「生きて」いるその姿をみて、何かをとても、大切にしたくなるのだ。


○ 
オバさんには40台の二人の息子がいて、両方独身であることをいつも笑顔で憂いている。今日、上の息子を勧められた。
顔もよく、優秀な研究者で、あいつは金持っとるよ!と言われた。
鼻セレブを発明したひとらしい。
 
 
鼻セレブは我が家に常備してあるティッシュだが、それよりオバさんの息子なら、いいかもなあ。と帰り道の空を仰ぎながら想った。
 
 

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