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MMM2009-2018:ハッピーエンドは、まだ早い(MMM2017)

2017年は、ぼくの身辺変化から話した方が良いだろう。

まず職場(宝塚大学)で大きな変化があった。
自分の管轄の映像領域を廃止し、入試委員長(IR推進委員長兼務)になった。8年間定員を大幅に下回る状況は問題があると思い、学部全体とターゲットがズレている映像領域に固執するよりも、学部全体をなんとかしたいと思ったからだ。ここから、外部のコンサルティング団体と毎回、喧嘩しながら、毎日数字とにらめっこしつつ、職場の皆さんに指示を出したり、お願いをする日々が始まった。大学教員と言えない日常だったが「(専門とのズレが大きく、教員としては必要とされないため)もう去るべきだが、その前に恩返しがしたい」という気持ちでやっていた。やってみると、とても魅力のある仕事で、文字通り専念し、結果も出すことができた。ただ、地域と深く関わるには、これ以上居心地の良さに甘えてはダメだ、と強く思い続けていた。だから、あくまで「終わり」を考えた一年だった。

他の職場でも動きがあった。ずっとお世話になっていた嘉悦大学は2017年3月一杯で退職した。明治学院大学もカリキュラム改変に伴い、2018年3月で契約終了となるかも…という話題が出てきた(実際そうなった)。出身の小川研も、先生が2019年度で定年退職なので新規の学生をあまり取らなくなった。どこもぼくにとっては優しい庇(ひさし)のような場所だった。しかし、どれも「終わり」が見えてきた。

僕自身の生活環境の変化もあった。当時付き合っていた人と別れたことで、一瞬でも終の棲家と思っていた土地を離れ、アクセスの良さだけで決めた山手線の大塚に一年限定と「終わり」を決めて、移り住むことになった(結果として最高だったけど)。

こんな状況でMMMに注力できる訳もない。MMMは、たくさん優秀な新入生が入っていた。代表もそれまでの浅野くんから、だーまん(高田彩加)に変わった。支えるスタッフも多く、これで大丈夫だろう、なんて思い、引いた立場で関わろうと思った。

だから、この年ぼくがやったことは多くない。少しだけ資金調達したこと、株式会社USENと組んで制作したイメージソング「-僕は駅猫おさむ~おさむの毎日~」をプロデュースしたこと。

それと「さいたまトリエンナーレメディアラボ」代表の直井薫子さんを呼んでトークイベント「MMM talk: 直井薫子さんに伺う(アート)プロジェクトの作り方と残し方」を企画したこと。

博士論文の副査をしていただいた加藤文俊先生の研究室をお呼びして、自分も参加したことのある「キャンプ」を那珂湊で開催するために、関係者と繋いだこと。

槌屋洋亮さんと一緒にセンシングのワークショップをやったこと。

それくらい。

そんな中で一日を振り返るとしたら、最終日のクロージングイベントだろうか。

MMMのクロージングイベントは毎年の代表が話すことになっている。しかし、この日のクロージングは違った。代表(だーまん)が急遽、都合で那珂湊から離れなくてはならなくなったのだ。

「この年の一枚」を見ても分かるように、ぼくはこの日、クロージングイベントを後ろから眺めていた。そしてクロージングイベント終了時に代表が(本来は一週間戻れない都合だったのに無理して)戻ったこと、クロージングが無事に進んでいるのを確認したあと、百華蔵の裏で泣き崩れる姿を見てしまった。

MMM2017はうまく行っていなかった。

スタッフとアーティストは集まった。企画は揃った。だけど、主体的に動く人間が圧倒的に不足していた。だーまんはMMMのほぼ全てを背負っていた。学生スタッフも、社会人スタッフも、地域住民も、ぼくたちは彼女にMMMを背負わせてしまっていた。ぼくが良かれと思って考えた企画の多くも、結果として彼女の負担を増やすだけであった。

2018年になり、もう一度、ぼくはMMMに深くコミットすることを決める。企画を増やすためではなく、MMMの根本的に病んだ体質を見直すことを目的として。

まだMMMの「終わり」は見えない。

すくなくとも「ハッピーエンド」は、まだ早い。

ーーー

だーまんはMMM2018で次の代表を支えた後、一つの区切りとして、もうすぐMMMを卒業する。過去の代表の中で一番、一緒にアートに触れたと思う。いろいろなアートイベントやアートプロジェクトに一緒に行き、たくさんの議論をした。その時間は、ぼくにとって幸せな時間だった。MMMで、それが得られなくなるのは、正直寂しくもあるが、彼女の意思を尊重しつつ、門出を祝いたい。

おつかれさま。でも、MMMの外でまた色々話そう。


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