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【74回】読書日記(190227)〜無差別と平等

今日は、ある小学校で一日授業を見学させていただいた。
子どもたちと過ごすのは最高だ。
「僕と一緒に時間を共有してくれてありがとう」

○野田俊作「劣等感と人間関係 アドラー心理学を語る3」(創元社、2017年2月)

アドラー心理学の本といえば、どうしても岸見一郎の著作群になってしまう。「嫌われる勇気」から入り、ベスト新書の「アドラー心理学入門」、中公新書ラクレの「困った時のアドラー心理学」など新書、さらには「人生の意味の心理学」「子どもの教育」など、アドラーコレクションの訳本まで出している。

だから、野田俊作の「アドラー心理学を語る」に出会ったとき、当初は買うつもりはなかった。
「アドラーは岸見一郎だけではないよ」というアドバイスをいただいたこと。同じ著者だけの解釈以外の本も読むべきだと思ったこと。

よくよく考えたら、教育者の赤坂真二も、経営コンサルタントの小倉広もアドラーに関わる本を出している。

アドラーを学ぶ根本は「嫌われる勇気」から始まるけれど、様々なものに触れてもいい。

読み終えてみた。
非常にやさしい語り口。読みやすい。
「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」で「共同体感覚」「ライフスタイル」などのアドラー心理学の言葉に触れていたため、余計に読みやすい。

ゆっくりと読んでみた。
ちなみに第3巻から読み始めたのは、単に興味があるタイトルだから。

○無差別と平等

読み終えて頭に残った言葉。「無差別と平等」

男も女も、大人も子どもも、教師も生徒も、親も子どもも、みんな同じでなければならないとするならば、それは平等ではなくて、私は無差別という言葉を使っています。

どの子どもも、同じ姿勢で、同じ道具を使い、同じ学び方で、同じ内容を学習すること。これこそが平等である。
違う。それは、環境を強制的に無差別にしただけのことだ。
たとえば、学ぶ内容は同じだとしても、子どもに適した方法で学習ができるようにすること。もっと言えば、子どもの能力に応じた内容を学習することができること。これが平等だ。

教育現場で「どの子も平等に」と言っているとき様子を見てみる。
例えば黒板の内容をノートに写すことが得意なAくんは、スラスラ写していく。けれども、黒板の内容を見ても写すことが苦手なBくんは、ノートに写していくことができない。
しかし、「黒板の内容をノートに写す学習方法」を「平等」に与えることが大切と考えてみる。無差別にAくんにも、Bくんにも同様の学習方法は与えられた結果、Bくんが「平等」に学習を進め、内容を理解することはできないのである。

無差別ということは、誰かを狙って行うということではない。誰に当たろうとも、同じようにするということである。

例えば、コーヒーが好きな人だろうと、嫌いな人だろうと。無差別にコーヒーを提供する喫茶店みたいなものか。このとき、顧客の願いなど全く関係ない。
ただ、コーヒーを出すだけ。

人はみんな違う。無差別にカモフラージュされた偽物の平等が、不平等を作り出している。

コーヒーを飲みたい人もいれば、紅茶を飲みたい人も、コーラを飲みたい人もいるわけだ。みんな、自分が欲しい飲み物を飲む。するとほっとする。提供されたものに差別はある。だが、得るものには平等がある。

学習も同じ。
そして、学級も同じ、と考えたい。

以下の言葉を覚えておきたい。

私たち日本人は、平等ということと無差別ということを完全に混同してしまっていると思います。その結果この社会は非常な悪平等、非常な不平等の世界になってしまっている。そういう平等ではなくて、真の意味での平等、個人の個性を認めること、そして、各人が自分の行為に責任をとって、他者に迷惑をかけない限り最大限に自由であること、そのような平等が、よい人間関係の非常に大きな条件だと思うんです。