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私が仕える絶対君主

私は執事。
仕える君主の命令は絶対である。
24時間365日、盆や正月はおろか休む間もない。
目に見えた給料や賞与はない。
私の体調不良もおかまいなし。
自分の時間なんて採れたものなら儲けものだ。
労働基準監督署の監査が入ればたちまちブラック職場と認定されるだろう。
今流行の退職代行を使うことは許されない。
もちろん使った人もいる。
執事の仕事を放棄した人もいる。
私も何度放棄しようと思ったことか。
私は君主からはとても頼られている。
この君主は、現状私がいなければ何もできない。
私はこの君主から離れることはできないのだ。
この君主の正体は2歳になる私の息子だ。

私は君主が誕生するのを心待ちにしていた。
君主を迎えるにあたって、必要な寝床や服、移動の際の荷車、嗜好品も用意した。
君主は“男”とのことだったから、青や黄色などそれらしい色に。
君主は喜ぶかはわからないが、一緒にいるハリネズミが好きになれるようにハリネズミの柄も取り入れた。
大変なこともあるだろう。
なんなら私も執事の仕事は初めてだ。
手探りであることは間違いない。
世の中には先人の執事たちの指南書もあるし、先輩執事たちの意見も見ることができる。
それに執事は私一人ではないから、協力していけば大丈夫だろう。
そう思っていた。

だがこんなに大変だとは思っていなかった。
執事の仕事を始めるには、まずこの世に君主を送り出すという大仕事がある。
この大仕事をすんなり1日では終えることが出来ず、私の場合は実に3日かかった。

「早く出てきて」
「私をこの苦しみから解放して」

何度もそう思った。
君主がこの世に誕生した瞬間。
それは言葉ではうまく表すことが出来ない喜びだった。
ようやく会うことが出来た。
ようやくその手に触れることが出来た。
なんと至上の瞬間なのだろう。
そんな喜びも束の間。
大仕事を終えた体はもはやボロボロだった。
身体には交通事故で重傷を負ったぐらいのダメージを受けていると例えられるほどだ。
まともに睡眠も食事もとれていない。
だが君主は非情だ。

「ここはどこだ!」
「暑い!なんとかしろ!」
「腹が減った!食べ物を寄越せ!」
「寝心地が悪い!」
「下半身が気持ち悪い!なんとかせよ!」

と私を呼びつける。
私の都合など知ったことではない。
それもそのはずだ。
誕生したての君主はほとんど目が見えていない。
それに今までいた薄暗いが温かい世界から、突然この世に引き出されたのだ。
誰も知った人もいない。
誰に頼るかわからない。
歩くことも、自分の思うとおりに動くこともできない。
なんという地獄だ。
そんな中での聞き覚えのある執事の私の声。
もはやこの君主が信頼できるものは執事の私だけなのだ。
地獄の中で天から降りた1本の蜘蛛の糸。
まさにその状態なのだろう。

君主の呼び出しは唐突だ。
夜中だろうが早朝だろうがお構いなしに私を呼びつける。
その上、君主はまだ言語を取得していない。
そう、執事である私が君主の要求を察して応えなければならないのだ。
間違っていればもれなく怒号が飛ぶ。
あれだけ参考にしていた君主の取扱書も、マニュアル通りにいかないことがほとんどだった。

「私はとんでもない君主のもとに派遣されてしまった」
と心底落ち込んだ。
だが落ち込む時間も許されず君主は容赦なく私を呼びつける。
まだ万全でない体を引きずりながら君主のもとに馳せる。
その繰り返しだ。
救いだったのは私が一人ではなかったこと。
もう一人いる執事と交替しながら勤務できていることは大きな支えであった。
またかつて執事を経験し、君主を一人前に育て送り出した経験豊富な執事たちの手助けにも救われた。
時には意見が食い違うこともあったが、大いに助けられたのは言うまでもない。
この頃先に執事になった友人たちに

「寝ている間は楽だよ。動き出したらもっと大変だから」
とよく言われたものだ。
いやいや、動いてくれた方がまだ楽だろうと私は高を括っていた。
だがその言葉は現実のものとなった。

君主が動けるようになるとますます目を離すことが出来なくなった。
そこらにあるものは手あたり次第口に入れられるし、破られたり壊されたりする。
行ってほしくないところへどんどん行くし、触ってほしくないものほどたくさん触りたがる。
君主の好奇心には本当に困らされた。
そしてこの頃から君主の身の回りの世話以外のこともこなさなければならなくなった。
君主が病気に罹らないように、あるいは罹っても軽傷で済むように予防接種というものをしなければならない。
これが1種類ごとに1枚申請用紙を用意し記載しなければならない。
君主の体重や身長、所在地や質問など記載することはたくさんある。
これを1回で3種類となると3枚書かなければならない。
それも月単位の濃密なスケジュールだ。
まさかこんなに書類を用意する必要があるなんて聞いていなかった。
そして、君主が1人でも生きていけるよう導くのも執事の仕事だ。
まず始まったのが食事を1人で採れるようにしてあげること。
とはいえ、いきなり固形のものを食べることが君主はできないので柔らかい10倍粥から始めなければならない。
粥が問題なく食べられるようになれば、徐々に10倍から7倍、7倍から5倍へとだんだん固くしていく。
野菜は一欠けらを茹でてさらに細かくし、すり潰して液状にして与える。
慣れていけば魚なども同様にしていく。
だがこれはとんでもない労力だった。
作業に集中させてはくれないし、容赦なく君主の呼び出しもある。
その上君主のためにと手塩にかけて食事を用意しても、すんなりと食べてはくれなかった。
気に食わないと吐き出すし、皿ごとひっくり返され、投げつけられたこともある。
せっかく用意したのにとこれまた私のメンタルは削られていった。
私は執事としてやっていけるのだろうか。
あれだけ君主のことを望んでいたのに、執事を辞めたい。
何度も思った。

その日は突然訪れた。
いつも一番に早起きする君主がその日はなかなか起きてこなかった。

「今日はおかしいな」

私は何か嫌な予感がした。
君主を抱えると異変に気付く。


熱い。
 
いつもより元気がない。

熱だ。体温計はどこだ。
手に取った体温計を脇に挟む。
その温度は39度を超えていた。
大人でもこんなに熱が出ればひとたまりもない。
君主の体は小さい。
その体にはとてつもない負担がかかっていることが容易く想像できた。
感染症の影響で、なかなか診てもらえない。
ようやく診てもらえることができ、薬が処方されたが効いていない。
どうして?
どうして薬が効かない?
今流行の新型コロナウイルスに罹ってしまった?
頭の中は軽くパニックを起こしていた。

「大きな病院へ行きましょう」

そう言われて、大きな病院へ向かった。
熱の経過でまずは新型コロナウイルスの検査から。
検査の結果で陽性だった場合は、感染症対策の整った病院へ。
そうでなければそこで診察してもらえることとなった。
こんな時世に君主を外に連れ出したのが行けなかったのだろうか。
私は自分を責めていた。
幸いにも新型コロナウイルスには罹っていなかった。
だが別の感染症に罹っていたのだ。

「今日家に帰すことはできません。入院してください」
「入院期間としては10日を見て頂きたい」

こうして君主は10日間の入院が決定した。
だが君主は一人では何もすることが出来ない。
付き添い入院を指示されたものの、感染症の影響で2人の執事どちらか1名のみで対応するよう指示された。
急に決まったものだから何の用意もしていない。
話し合いの結果、もう1人の執事が一旦家に帰宅し、私はそれまで傍にいることにした。
君主の小さな腕には点滴の針。
痛みに耐え、泣き疲れた君主。
その手はしっかり執事である私にしがみついている。

私がもっとしっかりしていれば、君主はこんな思いをしなくて済んだのではないだろうか。
私が執事としてまだまだ未熟だったからこんなことになったのではないか。
そんなことを考えているうちに、相方の執事が戻ってきた。
引継ぎを行い、私も次の日に備え帰宅することに。
その時だ。

「私を置いていくな!」

そう言わんばかりに君主は泣き叫んだ。
私もいられるなら傍にいたい。
だがここは一旦託して私は帰宅しなけば。
泣き叫ぶ君主の声に後ろ髪を引かれつつ私は家路についた。
 
家について私は驚いた。
この家はこんなに静かだったんだろうか。
君主の呼び出しがないだけで、こんなに静かだったのだろうか。
あれだけ望んでいた1人の時間だ。
好きなものも食べられるし、好きな映画や漫画も邪魔されずに見ることが出来る。
ゆっくり湯船に入ることもできる。
触ってほしくないものに触られることもないし、大事にしているものを壊される心配もない。


なぜだろうか。
自由なはずなのに、何をしたらいいかわからない。
自由なはずなのに、涙が止まらない。
君主に仕えるのはもう嫌だと思っていたのに。
その日はなかなか寝付くことが出来なかった。

翌日、所要を済ませ自分も準備をして交替するべく君主のもとへ向かった。
病室を開けると君主がこちらを見た。

「来たか」

と言わんばかりに。
だがその顔はどこか嬉しそうであった。
私との再会を待ちわびていたと言わんばかりに。
あぁ、そうだ。
この表情なのだ。
私がどれだけ理不尽に、24時間365日呼びつけられても。
この笑顔が見たいから、この笑顔を守りたいから私は執事として君主に仕えることができるのだ。
その後君主は治療の甲斐あり無事に完治した。
後に何か残るということもなかった。
退院した日は桜の舞う4月。
舞いあがる桜の花は執事である私と夫、君主である息子の新たな一歩を祝福してくれているようだった。

それから1年半。
君主である息子は自分の意志がはっきりしてきた。
自分で歩く。
自分で食べる。
自分でお気に入りのものを選ぶ。
保育園では食べるが家では野菜は食べない。
「ママ」とはっきり私を呼びつける。
嫌なことは「イヤ」と主張してくる。
繋いだ手を時々振りほどいて駆け出すこともある。
投げ出したいと思ったことは何度もある。
ただ、息子の笑顔を見るだけでそんなことも吹き飛ぶ。
この笑顔を守りたい。
これがきっと原動力になっているのだろう。

私は執事。
かつては君主だった。
この仕事を始めて2年目になる。
仕える君主の命令は絶対である。
24時間365日、盆や正月はおろか休む間もない。
目に見えた給料や賞与はない。
私の体調不良もおかまいなし。
自分の時間なんて取れたものなら儲けものだ。
労働基準監督署の監査が入ればたちまちブラック職場と認定されるだろう
執事の仕事は苦労ばかりだ。
だが、私の君主である息子はたくさんの無形の喜びをくれる。
これからまだまだいろんなことがある。
まだ私も完璧な執事とは言えない模索中の身だ。
いつか私のもとを巣立ち、羽ばたいていく。
その時私も執事としての役割を終えるのだろう。
その日を迎えた時どう思うのだろうか。
達成感に満ち溢れるのか、寂しくなるのか、執事の仕事から解放されることへの喜びに包まれるのか。
今はわからない。
だが今日も私は絶対的な君主のもとで執事の仕事をこなしている。

あとがき

「比喩」というテーマで育児について書きました。
まぁ、聞いてはいたけれど本当にどんでもないブラック労働だと思います。
でも息子の笑顔とか、「ママ、ぎゅー」とかって抱き着いてこられちゃうと吹き飛んじゃいます。
息子を絶対君主に例えて書いてみました☺

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