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校則のない自由な学校に憧れた人たちへ

わたしの高校は、校則がなかった。私服登校だった。朝の会も帰りの会もなかった。めちゃくちゃ自由だった。決まりという決まりがなかった。朝は先生がほわっと来て、適当に点呼を取って。正直遅刻しまくってたからあんまり憶えてないけど。帰りは五限や六限が終わるギリギリになると、みんな部活に行く準備をし出してチャイムと同時に教室を飛び出て。そんな感じ。とにかく、自由極まりない学校だった。この場合の自由というのは区切りかないこと、としている。時間や空間の区分がない。いいこととわるいこと、善悪優劣の区別がない。制限がない。ぜんぶまっさら。それを象徴した出来事がこれだ、高校受験をくぐり抜けてきたあとすぐの入学式のお偉いさんのスピーチ。「殺人だけはしないでください」。逆に言えば、それ以外はお前の責任の上でなら何をやってもいい、という趣旨のことを、その人は本当に言っていた。枠を外して、充実させてください、と。
結論から言ってしまえば、わたしはこの自由の行使の仕方がわからなかった。普通なら校則で許されないことをしてもだれもなんも言ってくれなかった。この学校は先生もゆるくて、休講になったときは授業時間に普通に外に出てコンビニに買いに行くのだけれど、その道中に校長先生と会っても勿論こんにちは、で終了。ここで大抵の高校ならあるだろう、ヤバい、見つかる、こそこそ、とか、そんなものはない。スカートを短くとかブレザー崩して着る、とか以前にみんな私服。遅刻しても指導とかにはならない。髪の毛は染めたい人は好きに染めてる。正直なところ高校生が染めても大学生みたいで高校生の良さが失われてたけど。進路についてもなにも言われない。好きにして、って感じ。部活、顧問はいるけど自分たちでがんばれ、ってとこが多い。初心者だらけの部でもそう。とにかく、なにも言われない。ほんとうに。これって一見楽しそうだけど、つまらない。高1の最初は楽しかったけれど一瞬で飽きた。休み時間すら部活の人と集まる人ばかりで居場所はないし、高3にもなると移動教室が多くて毎回違う教室にいるもんだから、クラスに所属しているかどうかも怪しい。修学旅行もない。ここにいていいよ、って言われてる気がしない。クラスで虐められたときのここにいてはいけない感とはまた別の「お前は好きでここにいるんだからな。高校は義務教育じゃないしお前は選んでここにいるんだから辞めてもいいし何してもいいんだよ」っていう。その怖さたるや。そこでわたしは、初めて不良やいじめっこの気持ちが分かった、反抗期の子どもの気持ちが分かった。あの相手の反応ありきでやっている、というやつ。自由じゃないことって楽しいんだってその時本当に心から思い知った。修学旅行の夜は、見張りの先生が来るから楽しさがマシマシなんだってこと、馬鹿みたいに本気でそれをみんなに訴えまわっていた。わたしは制限されて文句を言いたかった。そうすれば仲間もできる、悪いのはこんなルールを作った先公だ、って一致団結できる。それってなんだかんだ居場所があって安心できることなんだ。あともうひとつ大事なこと、決まりを作られて、同じルールに敷かれることで、自分が優れている、もしくは劣っている、と思いたかった。どっちでもいい、だなんてそんな不安定な世界が耐えられなかった。要は、わたしは自由を謳歌できるほど強くなかったんだ。確固たる自分なんてなかった。だから、高校3年間ブーたれ続けた。笑 でも、不満を言ってるのはわたしだけのように思われた。ほんとに。だってみんなこの自由な制度のこと大好きなんだよ。精神が大人。わたしだけなんだか子どもっぽくて。みんな、何かしらやりたいことがあって、勉強なり部活なりその他 "謎の" 趣味なり、本当にみんな何かに必死に打ち込んでいて、わたしだけ自由であることについてずっと文句を言っていた。自分が打ち込めるなにかがないから嫌だったとかよりももっと根っこの、自分のなかで自分の存在証明ができていないことの恐怖だった。

そのときにこれは宇宙だ、って閃いた。わたしはどこかに存在しているんだけれど、上も下も右も左も何もない、座標のつけようもない。上が優れてるとか右のが早いとかそんな意味付けなんてない。よって、自分が存在していることを示す指標がまるでない。右に1メートル動いたところで、何の意味ももたない。ただ”それ”が1メートル動いたのか、はたまたほかの全てが真逆の方向に1メートル動いたのか、よくわからないけれど、とりあえず意味はない。叫ぼうが喚こうが、音は聞こえない。音として振動もしなければそれを感知する器官もない。一度動き始めれば永遠にスーッとあちら側(もあるのか知らないが)行ってしまう。
つまらないな、と思った。わたしはめちゃくちゃにつまらなかった。同時にめちゃくちゃこわかった。宇宙空間でバッティングを試みても打った感覚がなくて抜けちゃう、みたいな、やったことはないけれどそんな感覚だった。

今になって思うのは、これは「自由というのが怖いことなんだ」っていうのを教えているヤバい学校だったということ。そしてわたしは弱い人間で、その重圧に耐えられなかった。根源的な劣等感やら罪悪感やらを抱えている人間は、自由の中に解き放たれるとその道の無さに、自分の軸の無さに、そのあまりにも無慈悲な衝撃に、自分を嫌うことをもできず、自由自体を忌み嫌ってしまう。

そういや、自粛期間に、似たような気持ちになった。その話のほうがこれを読んでる人は共感しやすいかもしれない。テレワークが出来た人たち、今までの無駄(効率や利益上の話。本当に無駄かは人によるだろう)に気づいたんじゃないか。もしかしたらみんな家から全部できてしまうかもしれない。そのときに家の中で完結してしまう自由さに打ち克てた人間はどれほどいるのだろう。空間や時間の区切りがないことが自由だ、と冒頭に述べたが、それが本当に取っ払われて何してもいいよ、と言われて、奴隷を続けてきたわたしたちの何割の人間がそれに耐えうるだろうか?全て自分の責任のもとに選択が為され、その通り遂行されていくことの怖さよ。そんなことも手伝って、最近はそこらで資本主義の奴隷から抜け出すことを推奨するような本やら思想やらが流布しているように思う。ただ凡人が理解しうるレベルの思想は現代の思想家に聞かずとも過去にすでに完結していることが多い。歴史に聞けば、いつの時代も同じような流れを遂げるのだ、と語るだろう。そんなことを知ればまた、数千年前と何一つ変わっていないように思える人間が、怖くなる。

話が壮大になってきた。奴隷で思い出したこと、もうひとつ。昔オレオレ詐欺なるものが流行ったけれど、詐欺は一向になくならない。時代に合わせて変えて生き残り続ける。なぜあれほどまでに消えないのか?対象になる人間がいなくならないのか?それは、なにかに従って生きてきた人間は“何か”に従わないと生きていけないからだ。そしてその親から生まれ育った子どももなにか転換点がない限りそのような人間だからだ。彼らは、巧妙なやり口で、他人の罪悪感に漬け込む。罪悪感は人間特有のものである。自然界の中では、自分の意思で選ぶことはどの生物も対峙している当然の恐怖であるはずなのに、それを人間の社会では悪いこととして、その強制力でコントロールするのである。そのやり方はまるで動物園。そうやって、この世界は代々騙されたい(支配されたい)人間と支配したい人間の要素がトータルで同量存在している。信仰宗教、詐欺、マルチ商法、ネズミ講、そんなのもすべてこの種のものだ。これらにハマる人間はこうであろう。「今まで歪んだ愛情を形成し、それに依存し依存され、信じ続けてしまった。辛かったけれどたった今ここで新しい教祖さまが現れ良さそうなことを言っているので、信仰対象を新しいものに変えたのだ」と。ここでは、救われた気になれる。辛かった自分への慰めが手に入ったり、犯してしまった過去の過ちへの罪悪感を埋めたりしてくれる。そんなものを、自分にとって善の判断だと信じて疑わない。そうして排他的な臭いを放ち始める。当たり前だろう。恐らく彼らがずっと昔からほしかったものが目の前にぶら下げられたからだ。唯一の身を捧げることのできる信仰に思えるはずだ。弱い人間は、みなすがる対象なり発散する場なりがなければ生きられないのだ。自分ひとりで絶望する力も余裕も残っていない。


このようにして、弱い人間はなにがなんでも自分の「物語」を守るために、他者の「物語」を破壊しようとする。それは宗教戦争とも言えるだろう。そこで、わたしは「争いには参加しません勢で仲良くしたいです〜!」としたいところだが、そこに問題があることは、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」という作品のなかで既に指摘している。

跪拝の統一性『人間という哀れな生き物の苦労は、わしなり他のだれかなりがひれ伏すべき対象を探しだすことだけではなく、すべての人間が心から信じてひれ伏すことのできるような、それも必ずみんながいっしょにひれ伏せるような対象を探しだすことでもあるからだ。まさにこの跪拝の統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにほかならない。統一的な跪拝のために人間は剣で互いに滅ぼし合ってきたのだ。』


もう、なんかいろいろ無理じゃん。考えるの疲れた。理想郷なんて夢のまた夢だよ。なんだっけ?わたしは何を話してたんだ?一人で自由の中で弱さを見ることに耐えられない人間の話か。


とりあえず人間が共有する「物語」が今後どのようなものになるのか興味はあるが、もう正直流されるのは勘弁という気持ちだ。大切なのは、「自らで自らの歪みと対峙して、認めること。ひとりで絶望すること。そこでの怖い自分を受け入れること。自分にしか理解し得ないから。そして、自分のものさしを自分に聴きながら見つけること。自分は本来なにが好きでなにが嫌だったか。今までのサイクルから抜け出すこと。次の世代に、この捻れを引き継がないこと。」ほんとうに、それだけ。それを極めるだけ。これが今のわたしの結論ですね。全然まとまってないけれど、読みにくくてごめんなさいとかは言いません。これが精一杯です。間違っていようが熱量で感じて下さい。そんな能力の無さなどさんざっぱら自分で嘆いてるのでどうかお許しください。

さ、みなさんも、いい夜をお過ごし下さい。
ぐっない🌙


P.S. この文章、なんで書き始めたんですか?って質問は飛んできてないけれど、勝手に答えておくと、「規律は破るためにあるって叫んで白い目で笑われた」って歌詞を聞いた瞬間、その経験がまんまあったのでその衝動のまま休憩なしで走り続けたら勝手にこんなところまで来ました。まじで、きもちわりいな〜.......。





どうも〜