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東浩紀「訂正可能性の哲学」書評〜生きづらさと訂正可能性

簡単に言えば、現代社会は訂正可能性をどんどん排除していっているが、それは大丈夫なのか?という話。
一番わかりやすい例は、AIを利用した人工知能民主主義への批判である。
人工知能民主主義は、グーグルが広告へ誘引するようにある個人を様々な日常生活の情報からあるカテゴリへと選別していくような評価社会=監視社会をいう。
そういった社会では、寝てばかりいる人間の政治家よりはマシであろうと、何でも「統計上の正しさ」で政治運営していく人工知能による政治が一部で持て囃されている。
しかし、一度評価されてしまうと訂正は難しい。
現代の昭和的価値観の全否定と過去の行いの謝罪を求めるポリコレ的運動が指すように、一度そう評価、レッテル貼り、カテゴリ分けされてしまうと引き返せないのだ。
もちろん、中国のような監視社会となれば、見かけ上の治安は良くなるであろうし、評価を気にして人々の行いは「滅菌」されていくだろう。
政治の問題も、予算を談合利権政治から守り、適切な配分が可能となるであろう。
だが、この便利さは我々が求めていたことなのだろうか?

生きづらさを論じたときにも書いたが、現代はより複雑かつ細緻な事象にまで社会システムが入り込んでいる。
かつての狩猟採集社会のようなおおらかな時代や、生産能力に準じた貧しい時代では、個人に求められる社会からの要求水準は限りなく低かった。もちろん、生存サバイバルや暴力は苛烈を極めたが・・・
社会が求めるある一定の水準がインフレを起こした結果が、発達障害なのである。
一昔前も発達障害の人間は居た。急に湧いてきたわけではない。
発達障害的特性を持つ人間も、「普通」に生きることができたのだ。それは共同体や文化のおかげでもあった。発達障害特性が「非普通=悪」ではなかったのだ。

東浩紀はウィトゲンシュタインとクリプキの論争から、この「水準」をうまく描いていると思った。
ウィトゲンシュタイン曰く、世界は言語ゲームなのだという。
難解すぎるので僕の勝手な要約と解釈であるが、人間は言語により支配されており、それはゲーム(遊戯)と同じである。
ゲームにはルールがある。子供の頃の遊戯では、鬼ごっこをしていたらいつのまにかケイドロになっていたりする。
言語ゲームはこういったゆるいルールであり、ローカルルールがあり、勝手に作られ、勝手に変遷していく。
よって「正しい」なんてものはその瞬間のルールの帰結であり、それはすぐ変わっていく。
現代社会は、この「正しい」を権力が強力に定義し、教育によってそれを普遍化し、それを法律で強制する。
個人は生まれてから死ぬまで「同じ個人」であり、責任は例え時間が移り変わろうともまとわりついてくる。
某ダウンタウンのまっちゃんが過去の女性への「扱い」が今頃になって「問題」とされ、世間からバッシングを受けている。
被害者とされる人は、まさに被害者であるし、まっちゃんの行いは昨今のゲームのルールでは完全に悪であろう。
だがしかし、JAPANの昭和芸能界の暗黙のルールでは、これは「当然の権利」だったのだろう。ジャニーズ事務所の問題然り、映画監督のセクハラしかり、彼らはその時代に権力を握り、当然の権利を行使していただけという認識でしかなかったであろう。

ではもっと以前はどうであろうか?
戦時中、鬼畜米兵を10人でも殺せば僕は英雄だったであろう。
今はどうであろうか?
ヒトラーがもし第二次世界大戦に勝利していたら、まちがいなく英雄とされていたであろうし、同盟国の大日本帝國に住む我々の歴史の教科書にも「英雄ヒトラー」の写真がデカデカと張り出されていたかもしれない。
それではもっと昔は?
側室を何百人も持つ豊臣秀吉は、女性搾取者としてポリコレに引っかかるだろうか?
歴史上の人物はたいてい「悪」であろうし、では現代に生きる我々は?

訂正可能性とはかつての過ちを大目に見る・・・なんてことではない。
現在の価値観など所詮変わりゆく定めにある、だからこそもっと柔軟に、他者に優しく、それでいてみんなで協力してより良いとされる方向を目指してみようよ、そんな当たり前の言っているだけだ。
だが、この当たり前のことが現在もっとも蔑ろにされている。共産主義や新自由主義、そしてAI人工知能民主主義、現代はより「当たり前=社会が求める水準」が科学的に進化発展しているという認識のために『訂正を許さない』くらいシビアになっているのである。
電車でタバコを吸ったらそれこそ非人間であり、酔っぱらいがちょっと口をすべらせた発言で社会的地位から簡単に落っこちる。
そこには個人の自由を求める声と、社会システムからの要請のバチバチの戦場がある。
そして僕が思うのは、このバチバチの戦場化した社会の動力源は、戦後から一転して変わらないただの金儲け・資本主義経済合理性でしかないという点だ。
女性の権利が認められたのは、銃後の戦時中の国家への協力があったからであり、裏には戦争経済がある。共働きが当然となれば、女性の権利はますます向上していくが、それは女性をお客様にしたい経済的動機がある。
もちろん、女性の権利が長い間蔑ろにされてきたのはいうまでもなく、女性の権利向上は喫緊の問題である。
しかし、MeToo運動やSDGsが戦争経済や環境経済と同じように「消費」されているのは間違いないであろう。
これは陰謀論ではない。ユダヤ人は関係ない(笑)
経済合理性でしか我々は「政治運動」ができないという現状をいっているのである。

この本は、そういった経済合理性による政治がらみの動機づけのために「訂正可能性」のない生きづらい社会において、一旦冷静になろうよという、ただそれだけを言っている。
しかし、この時代(訂正可能性のない時代)において、日本で一番有名と言っても過言ではない哲学者である東浩紀がこの事を言うことに価値がある。
哲学者ですら科学的なエビデンスと、清廉潔白で滅菌された人間性を求められる現代においてである。
東浩紀のいう訂正可能性とは、スターバックスのような滅菌された「おしゃれ」で「きれい」な演出のなされたグローバル経済の勝者の店で飲む600円のコーヒーよりも、近所の人達が集まって運営しているお祭りで出されるそこまで美味しくはないしコスパも悪いけど作っている人との関係性のある600円のお弁当のほうがみんなで楽しめて良いじゃん!という話である。
これを東浩紀に言わせている世の中というのは、余程生きづらいのである。
経済的なコスパは見るのに、幸せの費用対効果を見ない主体を生み出すのが現代社会なのである。


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