見出し画像

Art|モネ《印象、日の出》 絵の売り方まで変えた印象派

印象派はいつ誕生したのか。

この問題に答えるのはとても難しいことです。1869年にモネとルノワールが、パリ郊外のラ・グルヌイエールという観光地の湖畔で、同じ場所から同じ景色を描いた絵がありますが、対象物を捉えることよりも、光の揺らめきを、筆致をつかって捉えようとする印象派の基本的な技法はすでに誕生しています。フランス国外で見ても、イギリスの画家ウィリアム・ターナーは、モネやルノワールたちよりも先に、光や空気を捉えようとしています。

画像1

クロード・モネ《ラ・グルヌイエール
1869年 メトロポリタン美術館

画像2

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ラ・グルヌイエール
1869年 ストックホルム国立美術館

画像3

ウイリアム・ターナー《雨、蒸気、速度――グレート・ウェスタン鉄道
1844年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵

概念としての印象派の誕生を定義するのが難しい代わりに、歴史的な事実から誕生を定義することはできます。

1874年4月15日、パリ・カピュシーヌ大通りの前衛写真家・ナダールのスタジオで開かれた「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社 第1回展」、のちの第1回印象派展です。

モネもルノワールもけっこうディスられていた

あまりに長い展覧会名が示す通り、展覧会は絵画だけでなく、彫刻や版画なども出展されていました。さらに、共同出資会社とあるように、展覧会には出資金1株60フラン(およそ6万円)を払えば誰でも出品できる無審査の展覧会でもありました。

参加者は30名。その中には、のちに印象派グループの中心画家になるモネやルノワール、ドガやセザンヌがいました。

この展覧会に出品されたのが、クロード・モネが印象派展の前年に描いた《印象、日の出》です。

画像4

クロード・モネ《印象、日の出
1873年 マルモッタン・モネ美術館

モネが幼少期を過ごしたフランス北部の港町ル・アーブルの風景を描いているこの絵は、当時の美の基準では「未完成」とみなされるものでした。そのため美術批評家からは「描きかけの壁紙の方がまだ完成されている」や「初めて絵の具を塗りつける小学生のような子どもじみた手つき」というように、美術教育から逸脱した絵と捉えられていました。

さきほどの長い展覧会名にあるように、当初はグループに「印象派」という名前はついていませんでした。しかし、「”印象”を描いただけの未完成な絵」という批評家の批評がきっかけになりモネやその周辺のグループを「印象派」と呼ぶようになります。

そもそも「印象=impression」は、感覚的な印象を意味するほか、スケッチ風のおおまかな描き方を見下すような意味があり、当事者たちはこの言葉を好んでいませんでした。つまり、うまい具合にプロパーな批評家たちがモネやルノワールたちをディスっていたわけです。

世界初、自分たちの絵を自分たちで売ろうした

印象派の誕生は、タブロー至上主義のルネサンス以降の西洋絵画の常識を徹底的に破壊したことは、多くの方に知られていることだと思います。

そのなかで僕が1つ面白いと思っているのは、絵画の展示方法自体も印象派の画家たちが変えたということです。

先ほども書いたのですが、この展覧会はお金を払えば誰でも出展できる展覧会でした。現代の私たちには、何の新しさが感じられませんが、じつは当時の画家たちにとってはものすごく斬新で新しい取り組みでした。

というのも、画家が作品を展示・販売するには、国が運営する展覧会(官展)で入選しなければならなかったのです。そのため、多くの画家たちは、官展が好む絵を描き、そこで認められることを目指します。また、官展に入賞しなければ一人前の職業画家として認められず、教会や貴族から買い手がつくこともありませんでした。

18世紀末から続くこのシステムでしたが、フランス革命による絶対王政の崩壊、産業革命による新興市民(ブルジョワジー)の登場ですこしづつ、時代に合わないものになっていきます。

新興市民たちは、以前の権力者たちが好んだ、歴史画や宗教画ではない、風景画や風俗画に新しい感性を見出します。つまり、官展に入選するような作品には魅力を感じなくなるわけです。

そのなかで、新しく生まれた職業が「画商」でした。彼らが官展の役割を果たし、画家と新興市民の間を取り持ち、絵を売りさばいていきます。

官展だけが美の基準ではない――。そんな価値観が1860年代頃の若い画家たちを動かし始めます。そして、ついにモネやルノワール、ドガといった若い画家たちが、「自分たちでお金を持ち寄って展覧会をして絵を売ろうぜ!」といって始めたのが、「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社 第1回展」でした。

そう、現代のコミックマーケットのようなことが、1874年のパリで起こっていたのです。

炎上商法で新しい顧客を手に入れた

ちなみに、「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社 第1回展」では、実際に絵に値付けがされて販売もされていました。

もちろんモネの《印象、日の出》も1000フラン(およそ100万円)と値付けがされていましたが、残念ながら購入者は現れませんでした。

1カ月間の会期を通じて、絵の売り上げは3600フラン(360万円)でした。入場料1フラン(およそ1000円)で3500人を集めたといいますが、興行としては大失敗。共同出資会社は解散してしまいます。

それでも展覧会が賛否両論である意味バズったこともあって、翌1875年には画商を通じて、モネの《印象、日の出》が800フラン(およそ80万円)、同じく印象派展に出展されたものの売り手が見つからなかったルノワールの《桟敷席》が425フラン(およそ43万円)で買い手がついています。

画像5

ピエール=オーギュスト・ルノワール《桟敷席
1874年 コート―ルド美術館

プロパーな批評家の酷評が、経済をあたらしく回している新興市民を刺激し、「これが今っぽいしょ」といわんばかりに価値が上昇してマーケットが動く。これぞまさに現代の炎上商法を見ているようです。

とくに大西洋を渡り、印象派はアメリカでブレイクしたことはよく知られています。

印象派の画家たちは、革命的な画法を生み出したただけでなく、「自分たちの絵の売り方を自分たちで作っていく」というビジネス展開を始めたわけです。さらにそこで結果的に批判を浴びることになりますが、注目を集め、新しい職業である画商と連携しながら、新興市民への美の提供という新しいマーケットを切り拓いきます。

良いプロダクトを作るだけでなく、その売り方も考える。

現代のビジネスにも通じる発想だと思いませんか?

ーーーーーー

明日は「Food」。すこし落ち着いて書けるかな。

料理人付き編集者の活動などにご賛同いただけたら、サポートいただけるとうれしいです!