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夜桜

 風呂からあがり、化粧鏡の前に座る。鏡の背の漆の面が、こちらを向いている。艶のある漆黒の生地に施された貝細工が、和紙を通したほのかな光を受けて一面に桜の花を浮かび上がらせ、辺りに気だるいような春の夜が広がった。

 くるりと返して、反対側の鏡を正面からのぞきこみ、洗い髪を乾かす。
富士山のような生え際は、日本髪のかつらのようで、洋装には似合わずいつも前髪をおろして隠しているが、髪をアップにすると額からこめかみにかけての曲線が優雅である。
 まつげは、こうして少し伏し目がちにすると、より長く見える。そのまま右肩ごしに振り返るように鏡を見ると、目尻に瞳が移動し、切れ長の目に。流し目で見つめるのは、この鏡に向かったときぐらいである。
 今度は少し顎を上げて髪を耳にかけると、顎のつけ根から顎先にかけては、卵の真ん中からてっぺんにかけてのようなまろやかさがある。
 夜の室内の仄暗い照明は、顔に陰影を作り出し、影の部分が秘められた色香を醸し出している。
 もう一度正面から鏡を見る。前髪も耳にかけた髪の毛もおろして輪郭を隠し、いつもの表情に戻る。今度は鏡の裏の漆に浮かび上がる、螺鈿の桜を透かして見るように。
 
 夜桜は、秘めた美しさを月に見せたいのだ。地面から立ち上がり花に見え隠れする幹も、しなやかに伸びる小枝も、桜の花を美しく見せるための小道具である。かすかに吹く風に、どんなふうに身をあずければ、月の光が艷やかな色に染めてくれるか知っている。月夜の桜はむせかえるような美しさで咲き誇り、目にした人を惹きつける。
 ところが都会の夜桜は、一晩中人工の光に晒される。上からも下からも照らす安っぽい光の中で、ファミレスの店員のような張り付いた笑顔で、見上げる花見の客に愛想を振りまくしかない。本当の美しさを月に披露する機会もない、哀れな都会の夜桜。

 女性は、優しい笑顔の下に相手を一瞬で仕留める美しさを忍ばせて、その人が現れるのを待っている。

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