無題

罪と罰の経済学

罪と罰には、経済学のような交換の理論が関わっています。罪人とそれを罰する審判は実は共犯でもある、そういうお話をします。

(読了時間:約4分)

罪によって失われるもの

罪とは、悪い行動をとることです。悪いこととは、ルール違反のことです。よって、罪とはすなわち、ルール違反をすることです。

罪を犯すと、失われるものは「信頼」です。この場合の信頼は「期待」、つまりルールを守ってくれる予測可能性が高いこと。ルールを守ってくれるはずだと思っているからこそ、ルールを破るとその期待が失われるわけです。

罪の経済学

ルール違反によって信頼が失われても、それを回復する方法があります。それが償いです。償いとは、損害や損失を代わりになるもので埋め合わせることです。償いが成功すれば、損失は喪失し、信頼は回復します。

とすると、罪を犯した者とその被害を受けた者との間で、償い信頼の交換(やり取り)が生じているということになります。

あらゆる交換を扱うのが経済学です。なので、この罪による償いと信頼の回復もまた、経済的なのです。

ただし、ここでやり取りされる「財(交換できるモノ)」は、経済的な財(物やお金)とは限らず、社会的財も含まれます。

その社会財の1つが「ルールを守ること」そのものなのです。このようなルールは、儀礼と呼ばれています。「謝罪」をすることが償いになるのは、謝ることが儀礼にあたるからです。

罪をなかったことにしたいのはお互い様

人間にとって、ルールは単なる行動のレパートリーに留まらない意味を持っています。それは、ルールを守るか守らないかによって、仲間かそうでないかを区別する機能です。

これによって、罪を犯した側だけでなく、罪を犯された側が困る理由も説明できます。その理由は、罪を犯されたことによって、仲間だと思っていた人が仲間ではなくなってしまうという危機に直面するのです。

そのため、すでに仲間でいる罪人に対して積極的に償いを要求して、信頼の回復を図り、自分の仲間が減らないように働きかけるのです。それを罪人が承諾した場合、ルールに反した人とその相手は、協力して信頼を回復しようとすることになります。ふたりは協力者なのです。

この危機は、より人手の少ない未発展の時代や、人口流入の乏しい村などで深刻になるでしょう。

罰を受けることは償いの一種

罰とは、罪を侵した(=ルール違反をした)者に対して、損害や損失を与える行動です。基本的な人間関係において、他者に危害を加えることはルール違反です。しかし、ルール違反をした者に対してならば、罰という名の危害を加えてもよいと考える人は多々います。

もしも罪人が罰を受け容れるならば、これは上記で述べたような償いと信頼のトレードが始まります。なぜなら、罪人は最終的に「許し」を得て、罪は帳消しにされ、人間関係を取り戻すからです。

奪われたことを奪うことであがなう、しっぺ返しが成り立つからこそ、罰が償いの一種になるのです。

まとめ

罪とは、ルールに反したふるまいをすること、すなわちルールを守らないことです。「ルールを守ること」は、それそのものが社会的財の一つです。よって、他者とのやり取りに用いることができ、社会への貢献にもなります。そのため、罪を犯すこと(=ルール違反)が、損失につながるのです。

罪を犯すと、信頼(ルールは守られるはずという期待)が失われます。その信頼関係を回復するためには「償う」必要があります。償うとは、損失や損害の代わりになるもので埋め合わせることです。

罰とは、罪を犯した者に対して損害や損失を与えることです。罰は償いの一種です。よって、罰を受けることが信頼の回復に通じるのです。

信頼の回復は、罰する側にもメリットがあります。なぜなら、罪を償ってもらうことによって、仲間が減らないようにできるからです。人はルールを守ることによって、仲間とそうでない人を区別しています。よって、ルール違反をした人を仲間として留めておくためにも、償いを求めるのです。

おわりに

この話は、先週からずっと気になっていたトピックスです。突き詰めてみると、いままで取り扱ったいろいろな知識がちょっとずつ関わっていることが分かりました。なので、この話題を考える過程で得られた他の知見も、順次投稿していきます。

よろしければ、スキを押していただけましたら幸いです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?