あなただったから、良かった

先日、知人のコンサートに行った。彼女とは5年くらいの知り合いであり、今回が1つの節目のコンサートでもあったので、なんだか感慨深いと思いながら聴きに行った。

今回の曲は彼女の友達が書いてくれたらしい。
どんな仕上がりになっているのだろうか。


演奏が始まり、いざ音を聴いて、
ああ、そう来たか、と思った。

わたしは彼女を、彼女の演奏を前から知っていたからそう思ったのかもしれないが、
「それをそうしたのね!」と、はっとさせられた。


その演奏は、
彼女の去年まであった気負いや責任が消えたことによる余裕や空虚、
今まで詰まりすぎていた中に何を入れているのか迷いあぐねているような空洞、
少し先の未来への焦燥、
そういったものが全て、音楽として結晶化していた。
彼女をよく知る人が作った曲を、彼女が弾くことによって完成する曲になっていた。

彼女が自分で直したいと思っているところ、
自分の中でどうしようもなく嫌いで格闘しているところ、
隠していたいようなところを良さの1つとして前面に押し出した音楽だった。

彼女の演奏は、彼女の持つ特性を今までにないやり方で美点として生かしていた。

メロディアスなところで自分の世界に酔う感じ、
好きな所では拍頭が重くなるところ、
弱い音を切る時のわずかな震え、
曲への愛。
そういったものが彼女の個性としてではなく、曲のパーツとして輝いていた。
本来の「音楽」の形を見たような気がする。

この曲でなければ彼女は客をあんなにも魅了できなかっただろうし、彼女でなければこんなにもこの曲が感動を与えることはなかった。
この曲は彼女を必要としていたし、その逆もまた事実であった。
そここそが、私が彼女の演奏に惹かれた最大の理由なのではないかと思う。

そうした演奏に対する、「そうきたか!」という私の驚きは、例えて言うなら
「割れやすくダイヤモンドほど美しくもなく価値も高くない」「だから実用的な方向でどうするか考えよう」
と思っていたガラスに対して、“ガラスの靴”という全く新しい解を見せつけられたような。
宝石としてのステータスは築けなくても、「ガラス」のままで光り輝き羨望の的となれることを示されたような、そういった感覚だ。

最初に「ガラスの靴」を作ったひとは誰なのだろう。それをシンデレラという物語のピースとして使った人はいつの人なのだろう。
今や「ダイヤの指輪」と「ガラスの靴」ではどちらが夢が詰まっているかと言われるとなかなか優劣つけ難い。

いびつな穴を埋めようとしていたのに、「そこにこそ光をあてると美しいのよ」と言ってくれる人は何という存在の人だろうか。

「あなたがあなたのままで美しい」というのは、磨かずとも美しいという意味では決してない。
ガラスは宝石として地位を得られなくても「ガラスの靴」として夢や希望の対象になれる、という意味だ。
他の人とは違う、あなたにしかない磨き方、魅せ方があるよ、という意味だ。
「あなたがあなたのままで美しい」というのは、光が当たらなくてもいいという意味ではない。
あなただから光る光の当て方がある、という意味だ。
作曲者・演奏者が伝えたかったことではないかもしれないが、私はこのことを学んだように思う。

演奏後、私は彼女に最大級の賛辞を込めて、この言葉を送った。

「あなただったから、良かったよ。」

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