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【ミライの村作り】プロジェクトに参加してます〜実際のところ『村』って・・・何?

濱崎仁詩さんの【ミライの村づくり】プロジェクトに参加しています。
濱崎さんの投稿はこちら。

■とにかく暗くて偏狭なこの分野


数多くの事業に参加して、対面でのコンサルをしまくってきた身からすると、農や村づくり、里山暮らしを推奨している人たちのほとんどが「暗い」か「偏狭」のどちらか、またはどちらもに当てはまる
ここがスタートラインで事実なので、別にディスっているわけではない。

「農業や農は下火でみんな困っている」暗い
「政策や若い人がどうのこうの」暗い
「この無農薬農法こそが正しい。伝えるんだ」偏狭
「自分たちの自給自足で幸せな生活をしている」ポジティブだけど狭くはある

農や村に限らずそういう人は一定数いるものだけど、この世界はうんざりするほどそう言っている発信者を見かける。

もちろん地道に毎日ちゃんと生活している専業農家がいることや、売れるための農業を追求している農家がいることは正しく理解している。
そういう人たちと一緒くたに斬っているのではない。
不動産や中古車のように業界ごと腐っている分野に似ていて、関係者が暗くて狭いあり方スタートを余儀なくされているということ。


■農とはこうだ、村とはこうだ・・・という思い込み


村づくりのコミュニティというのも、全国には成立しているところがいくつかある。周辺地域から集まって稼働しているところは概ね『標語』を掲げているところが多い。
みんなが笑顔だとか、これからの農業を背負うとか、自然農でやっていくとかそういうもの。そういった標語は人を集めることに一役買うし、実際にやる気が促進されることも少なくない。
ただ、はっきり言って狂信的なカラーを感じる。新興宗教や強引な営業手法は「方法論」として確立しているけども、やり口が同じだ。(完成された新興宗教より下手ではあるにしても)

個人で頑張っている人は、発信をすることで知ってもらおうとする。まっとうな方法だと思う。ただ方法に問題はないけども、この生活がいかに良いか、やっていることがいかに正しいか、だからもっと認められるべきだ・・・というようなものも目立つ。信念を持ってやっていることをよりどころに、どう考えても成り立たない状況で頑張っている自分をアピールする。

といって、何でもかんでも自由、みんなで楽しく、笑顔で一緒に作業をする・・・というようなコミュニティはそのうち成り立たなくなる。実務が回らなくなる。
借りている土地の返却を求められたり、収益状の問題が出る。なんなら「仕事が忙しいので今月は無理です」と自由に関係するために、誰もそこそこしか取り組まない。サークルでさえそこそこの人しかいなければ回らなくなる。

俺の村づくりに参加する役割(のようなもの)は、最初にこうしたマーケット分析なり活動家の始末を分析することにある。メタ認知から入って何が起こっているか、何が可能か、何が不可能か、技術で解決できるのかどうか、などを傾向分析する。一応業界の最先端や成功している取り組みも頭にいれる(が入れすぎない。理由は書くと長いので割愛)。
数字は必要なら追うけども、追う必要がないほど現実が教えてくれるなら見向きもしない。見る意味がないからだ。

で、そういう全体像を把握してどうするのか?というと・・・


■なぜミライの村づくりに関わるようになったか


濱崎さんの「思考のバランス感覚」が良かったからだ。
もちろん実際に農や自然との共生生活をしているというのはある。「これからやりたいです」だったら協力していないと思う。
濱崎さんの考え方は上のリンクでも見られるし、facebookグループでも書いた。


人口も産業も全体では落ちている分野を扱うのに、既存の方法は基本的に役立たない。新しい取り組みによって打開策を見つけた人がいても、その方法は汎用性が低かったり、制度の中で誰でもできるわけではないことが多い。
こういう場合では枠組みを新しく作り変える必要がある。
現状を問題として捉えるのではなく、このような傾向の現実がある中で、全く別の視点からどのように出し抜くことができるか。維持継続的に永くやっていくために満たす「全体構築条件」が何か、というように考える。
これは農や村に経験がない人の方が視点として持ちやすい。その世界の常識を省いて物事を見直せるからだ。

だから濱崎さんと話すのは「村の定義」からで、「村をどう作るか」からではない。そんなのは後からどうとでもできる。
そこが面白くてプロジェクトに関わろうと思った。同じように面白いし実力を発揮できる人はどのような分野であっても参加してほしいと思う。


■個性を生かすという考え方は一致している


「長い目で考えた方がいい」というのが濱崎さんと俺の共通している考え方で、だから急いで標語を用意したり、勧誘したりということはしていない。
その中でもいくつかはっきりしているものもある。
農にも村にも関係ないように思うかもしれないけども、個性を生かすことは絶対条件的に共通している。

農や村運営にかかわらず、私たちの頭にはバイアスがある。「成り立たせるために必要なことをやらなければならないんだ!」と思ている。確かにその通りだが、そのため「ルールを守らせ」「仕事をちゃんとして」「義務を果たす」ことが大事だと信じている。
この昭和の考え方は的を外している。少なくとも農と村を取り巻く事実をよく見れば「今後通用しない」ということがすぐにわかる。

個性を生かすというのは、そういった標語から生まれるシステムを守るための「人」ではなく、人のできることと性質をどのように当てはめて何を生み出すことができるか?の総合値から成り立たせる考え方だ。
前者が中央集権型のパイルダウンで、後者がボトムアップになる。そもそも個々人に我慢を強いる昭和のやり方をしなければならないのなら、村づくりなど最初からしない。しかし逆に、やってもやらなくてもいいという無責任の人をわざわざ村人として招きたいわけもない。

自分ができることを武器として使う。これが基本。つまり個性を扱う。農が好きな人がいれば興味がない人もいる。ネットで何かができる人は土をいじる必要はない。そんな人に土を強制すれば、別にネットに集中できる他のことをすればいいと考えるし、たちまちいなくなるだろう。
集まる人たちが自分ができることを積極的にする。できることというのは経験でもいいが、自分自身を生かすことであってほしい。そして義務とルールからやるのではなく、自分自身の動機と力で「村を作る」ことを取り組める。
そういう場所でないとあまり意味がない、というのはこれからもおそらく変わらないポイントの1つだ。当然個性の芽を潰すような「正しい(らしい)」考え方は受け入れないし、農や村に関係がない人も積極的に受け入れようと思っている。


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