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「批評家」の青春 伊藤整「若い詩人の肖像」

 伊藤整「若い詩人の肖像」は、題の元となったであろうジョイスの「若き芸術家の肖像」がそうであるような、自伝的長編小説である。「あとがき」に、「新たにフィクションや架空人物を配し」と記されているので、実人生にどれほど忠実であるのかは読者には与り知らぬところであるが、巻末の年譜を見ると時系列や主要な出来事はほとんど忠実であるといってよい。だから、ここでは「私」=伊藤整自身としてこの文章を続けていく。
 この小説は、大正11年、17歳の伊藤青年が小樽商業高校に入学したところから始まる。注目すべきは、この時点で伊藤整が確固とした「批評意識」を持ち、その眼を常に内外に向けていたということだ。
 たとえば、「詩人」たらんとする「私」は己の詩にも、同年代の「若き詩人」にも、現在ではもはや古典とされるような大家にも、その批評の眼を向ける。そして、良いと思った詩はノートに取り、なぜその詩が良いのか徹底的に分析する。巻末解説を書いている荒川洋治も指摘するように、折々に登場する、「私」の詩壇への客観的な批評が面白い。「私」は決して「権威」に惑わされることなどない、ブレない批評を展開していく。

私は、白秋、露風、惣之助、光太郎、朔太郎などの作品を傲然として批判し、点をつけ、その中から一ニ篇を僅かに自分のノートに写すという栄光を彼らに与えていた。

草野心平などという変な名前の男をも先輩と見なければならないのである。草野心平というのは全然誤魔化しかでたらめで人を驚かすような詩しか書いていない奴だ、と考えた。

講談社文芸文庫版、伊藤整「若い詩人の肖像」280頁

 その批評は、己の詩作にはいっそう厳しく向けられる。

私は自分の心内の自己批判では、自分の作品にかなり自信を持っていたけれども、しかし、自分の詩には、萩原朔太郎のもっているような決定的な力のないこともしっていた。(中略)詩壇では、自分の納得するような地位を与えてくれることは決してないだろう、と思った。

同、260頁

 この本を読んで、私は、伊藤整は本質的には「批評家」なのではないかと考えた。もちろん、伊藤整の著作活動は多岐にわたる。けれども、どの作品も、「批評家」が書いた詩であり(詩人が書いた詩ではなく)、小説であり(小説家が書いた小説ではなく)、批評である。
 本書には多数の伊藤整による「詩」が引用されるが、正直これらの詩が、現代でも充分読み得るものには私には思われない。時世粧に耐えているとは思えないのだ。だが、徹底した「批評」によって成立しているこの作品は、いつまでも「青春」を描いた文学のメルクマールとしていつまでも読み継がれるであろう。先に私は本作を「自伝的長編小説」と紹介した。が、私はこの紹介を訂正しなければならない。本作は、「自伝的長編小説」のふりをした「批評」の書であると。
 本書は、文学史のゴシップ的な楽しみ方もできると最後に付け加えておこう。印象に残ったのは、死の二ヶ月前に講演にやってきた芥川龍之介を描いた箇所。芥川は、≪文学芸術とは描かれたものであればよいので、それ以上の条件は必要でないと理論的に喋って行った≫(331頁)。この講演会で芥川の他に里見弴も講演したが、伊藤整にとっては芥川の話の方が面白かったという。
 二ヶ月後、芥川龍之介は自殺し、雑誌は彼の死を特集したが、伊藤整はこの自殺に心を動かされなかった。なぜなら、「文士が生きつまれば自殺する」と思っていたから。そして、講演で展開された描写即芸術という理論も「随分苦しそうな無理な理論」、つまり「行きづまり」に他ならなかったのだ。

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