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個人を越えて 宇野千代「雨の音」

 宇野千代「雨の音」は「私小説」であるが、これは宇野氏自身の「人生」を語ったり、告白したものではない。むしろ、宇野氏は「人生」を語ることへの不審があるように思われるのである。
 この小説では多くのことが描かれる。主人公の「私」の、従兄との結婚や子どもの死(娘の寵子が生きていたのはたった三時間であった)。雑誌「スタイル」の創刊やその編集をしていた吉村(モデルは北原武夫)との結婚。戦時下での生活や戦後の事業の失敗。そこからはじまる借金返済生活。返済直後におとずれた吉村との離婚。再婚した吉村夫妻との不思議な交友。そして、最後には吉村の死が描かれる。ひとはこれを見て「波乱」と感じるにちがいないが、「私」はそう捉えてはいない。なぜなら「私」は、「いつのときでも、(中略)自分がそのとき、自然に、したいと思うことだけをする」人物であり(14頁)、「どんなことがあっても、いつの間にか忘れて了う」人物であるからだ(17頁)。宇野氏はこれを「私の癖」と書いているが、私にはこれはひとつの思想、しかも確固たる思想のように思われるのである。なぜなら、宇野氏は意思的にそう行動しているからである。それは以下の文からも明らかである。

私はいつでも、愉しくないことがあると、大急ぎで忘れるようにした。思い出さないようにした。そして全く忘れるようになった。これが私の人生観でもあった

宇野千代「雨の音」、59頁

私はいつでも、何事かにかまけて、そのことを思い出さないようにした。そう言うことにかけては、私は天才であった。

同、65頁

「雨の音」には、先に述べたように波乱に思われることが描かれるが、文章は平明で、全体に起伏がない。いい換えれば、どの出来事も標準化しており、淡々と進んでゆく。その所以は、先にいった宇野氏の「人生」を語ることへの不審によっている。なぜなら、起伏を描くことこそ「人生」を描くことだからだ。では、この不審は何によっているのか?この不審の正体は、「人生」というものがもつ事後性である。
 ひとはある思考によって行動し、その連続が「人生」になる、と一般に考えられている。が、果たしてそうだろうか?
 「人生」とはその時その時の断片を事後的に並べたものに過ぎない。そこには、必ず個人の恣意が入っている。いや、個人の恣意のみで出来ている。それは物語化であり、ある種の自己欺瞞であるといっても良い。宇野氏はそういったものを斥ける。それゆえに、「であったのか」「だったのだろうか」という文が頻出し、事後的な断定を避けているのである。
 したがって「雨の音」は、私=私の人生を語ることを拒んだ「私小説」であるといえる。そしてこの作品は、宇野氏という個人を越えて、「人間」という存在そのものを描くことに成功しているのである。

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