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マレーシアで差別はあるのでしょうか

 マレーシアという国は、多民族が共存している社会です。いろんな人が住んでいますが、果たして差別はあるのでしょうか。
 結論からいうと、差別というのはなくすことはできないので、マレーシアでも存在します。


■差別とは何?

 辞書での定義にすると、差別とは2つの意味があるそうです。

1 けじめをつけること。差をつけて区別すること。ちがい。分別。
2 特に現代において、あるものを、正当な理由なしに、他よりも低く扱うこと。
                        『コトバンク』より

 ここでいう差別とは上記の2を指すことになりますが、他よりも低く扱うことが肝になりそうです。

 といっても差別の基準は人さまざまです。欧米人がアジア人を差別するのは体が小さく、黄色い肌をしているからとか、英語ができないからとかで差別となる要素は人によって異なると思います。となると、実際、何をもって差別をするのかというのは実はよくわからない。差別する人の原因となるものを一つ一つ辿っていかないとわからないということでもあるのです。

 さらに、その要因とやらがわかったところで、実は曖昧模糊としたものであったり、事実誤認であったりということもしばしば。こうなってしまうとお手上げであって、差別される側もそんな辿っていく作業にかまっていられません。

 だとすると、もう世の中には差別ありきで考えたほうがよさそうです。ただ、上原善広さんの『路地の教室』でもいっているようで、差別をなくすためにあがなうことが重要なのです。差別はなくならないものの、なくす努力はしていったほうがいい。

■マレーシアでの事例

 さて、本題です。

 昨年11月にアンワル政権ができてからソーシャルメディアを中心に差別的な発言をする輩が増えてきました。特に最近新聞でもよく出てくる3R。これはRace、Religion、Royalの略で、つまり、人種、宗教、王族のこと。これを各民族、特にマレー人と華人の間で批判するのです。これら批判はマレー人政党である統一マレー人国民組織(UMNO)が、犬猿の仲である華人の民主行動党(DAP)と連立政権を組んでしまってから多くなっていると思われます。この3Rに引っかかった人たちが何人もこれまで検挙されていますが、ソーシャルメディアが発展した結果でもあるから、こういった事態にまでなっているのでしょう。

 マレー人と華人の関係は傍から見ると現在は良さそうに見えていますが、歴史的にみて非常に仲が悪い。その頂点が1969年の人種暴動事件に発展し、100人以上が死亡したことです。表面的には友好関係を装っていますが、あれから50年以上経っても根本的には仲はよくなっていません。心のなかではどこか軽蔑と差別の目で互いをみていると思われます。

 マレー人と付き合っていると、やはり華人への不信感をよく聞きます。もちろん人にもよるのですが、「華人はこうだからあの華人もこうに違いない」という固定観念がこびりついている。逆に華人も同様で、マレー人の怠慢さをことのほか強調する人もいます。僕の華人の友人は昔何かの問題のときにマレー人から「ブタ野郎」と言われたといいます。

 また、インド人に対しても同様で、マレー人や華人に対しても友好的なのですが、やはりいずれもインド人に対してはどこか「異なる人」という視点からみている気がする。あからさまな差別的な行為はほとんどありませんが、インド人は気性が激しくいい加減で突飛な人も多いことから、できるだけ避けようという人も多い。ちなみに、インド本国ではカースト制度がまだ残っていますが、マレーシアのインド人社会にはこのカースト制度はもちこまれていないのだとか。たぶんそれは本当でしょう。というのも、19世紀から20世紀にマレー半島に来たインド人の多くは不可触民など下層階級の人たちが多かったことから、そういった制度から逃れて来た人も多かったのではないか。そういった人たちがわざわざカースト制度を持ち込むはずがない。これは上級階級の人たちが欲した制度であって、その制度に組み込まれた下層階級がわざわざ他国に行ってまで採用するとは思えないからです。

 話が少しそれましたが、マレー人も華人のこともよくわかっているつもりの僕からみると、どっちもどっちなのです。なぜかというと、お互いにほとんど会話がないので、互いのことを知らない。同じ国にいながら、別の国の人のような接し方をする。一応マレー語が公用語にはなっていますが、華人はマレー語をそんなに話せないし、マレー人も中国語はおろか、貧困層になるにつれて英語さえもできない。つまり、マレーシアは公用語がありながらも共通語がないという状況で、日本人からするとなかなか理解ができない状況なのです。

 共通語がないがゆえに、互いの文化や風習というのも理解できない。華人はマレー人の断食習慣ぐらいは知っていますが、この前びっくりしたのはマレー人が礼拝を一日5回しているというのを知らない華人もいました。豚やアルコール飲料は食さないということはわかっているようですが、要はそんなことから「ああ、自分たちとは異なる人たちなのね。関心ないわ」という結論に達する。これでは理解というものには決してたどり着かないでしょう。

 マレー人も華人文化については理解しようとしません。ただ、「ああ、あの人たちは酒を飲むし、ゲテモノの豚を食っているやつら」と考えており、積極的に付き合おうとしないのです。考え方もまるっきり異なることもそれに拍車をかけています。

 マレー人も華人も民族を越えた友人がいないのが現状。子どものときは遊んでいたりしますが、大人になるに連れてつき合うことがなくなります。特に今の若い世代は顕著です。これは言葉の問題もあるのかもしれませんが、根本的に自分の民族以外には興味がないのかと思います。60代以上の世代になると、まだ共通語が英語だったりするので、互いに家を往来するほどの友人もいるのですが、若い世代はほぼそれは無いといっていいでしょう。

■互いの理解は難しい?

 さきほど出した上原善広さんの『路地の教室』では「他人を理解するということは、実は不可能で傲慢なこと」と指摘されています。僕もそう思います。上原さんは「男女間で理解し合いましょうというのはそもそも幻想なのでは」と疑問を呈し、「本当の意味で相互理解を進めようと思うのなら、女性は主張する一方で、女性に対しての男の本音についてもすぐに批判しないで、まずは一方的にでも聞くことが大切」と説いています。これはなかなかするどい指摘で、男女間だけでなく、マレーシアでは民族間にも適用できそうです。

 というのも、お互いに本音でどうも語り合わないためにいつまでたってもタブーがあって、同じ国にいながら何も話もしない。それが差別と批判を助長する原因にもなっていると思うのです。3Rというのが一番いい例です。これは互いに話し合わないので、タブーということになってしまっているのです。マレー人は連邦憲法を盾に3Rを取り上げること自体を拒否しているようですが、逆にこの3つがクリアできないと差別のない社会はできないのではないでしょうか。

 政府は1970年代に国民融和局というのを作って民族間の融和を図っています。今は省に格上げされ、2020年には「国民融和政策」というのを策定しましたが、実際これは読んでも何をどうしたいのかがいまいちしっくりこない内容です。政府も実はどうしたらいいのかわかっていないのではないだろうかとさえ思えます。

  そもそも文化も言葉も均質的な日本でさえも、差別はあります。多文化多民族社会のマレーシアで差別がないというのはおかしいもの。融和政策をもって互いに理解するというより、とことん話し合った上で他方の立場になって考えるというほうが生産的ではないか。他方の立場になれば、気づきも生まれるはずで、そこからまた得るものもあるはず。そういった施策を行っていくことが差別をなくしていく社会につながっていくと思います。

 タブーのない社会を作ることが大切で、これだけうまくいっている多民族社会でここをクリアできれば、社会ももっとよくなることでしょう。ただ、最近思うのがマレーシアの人たちは自身のコミュニティーの中だけで完結する生活が多いことから、実は自分の国が多様性に満ちているということを認識していないのではないか、とも思えます。これはまたこれで重い問題ですが、いつわりの多様性ではなく、真の多様社会を確立するためにはあと一歩思い切ったことをしないと差別のない社会にはつながっていかないのではないでしょうか。

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