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広島・原爆ドーム前での灯ろう流し

 今年の8月6日に向けて、私は同月4日から3泊4日で広島の旅行に出かけた。本文は、8月6日に平和祈念式典に参列し、その日の夕方から行われた灯ろう流しについて書いたものだ。
 平和祈念式典後に厳島に行った。厳島から帰った後に再び原爆ドームまで行き、灯ろう流しを見ることができた。私は写真を撮ることに夢中になってしまった。とてもきれいで、幻想的で、心の奥の方に触れてくるような、そんな景色だった。情緒的になってしまうのが私の悪い癖なのかもしれない。戦争をどう解釈するのかということにおいて、情緒を介することは、戦死者への勝手な感情移入なのかもしれない。しかし、戦死者や被爆者への情緒的な共感をなくしては反戦の思いを語ることはできないし、そもそも反戦を志すことはできないだろう。そう正当化して、その情緒に任せて文章を書いてみたい。
 私は川に流れる灯ろうを見て、その流れのゆったりさが、時間の流れを実感させるように思えた。慌ただしい日々の中で(特に、私が「旅行のスケジュール」に追われていたこともあるかもしれないが)、時間やその空間に親和するという体験が減ってしまっていた。さらに資本主義の影響で、ますます人生の余白が奪われている中で、私自身も、自分の人生の余白を何か「意義あるもの」(例えば、行動をするとか抗議をするとか)にささげようとするような意識が働いていたのだ。原爆ドーム前の川辺に座って、人々の願いが書かれた灯ろうをぼーっと眺めている時間は、他の何にも代えがたい価値があり、本当に豊かな時間だったと感じた。途中から写真に収めることをやめ、一人で流れる灯ろうをずっと眺めていた。気が付くと8時半を示した時計が9時を回っていた。お腹がすいていたことも忘れ、ずっと眺めていた。原爆が落とされたあの瞬間に一瞬にして消えた命。戦いが終わっても後遺症により蝕まれてしまった生活。すべてに思いを馳せることは不可能かもしれないが、灯篭を見ていると、その一つ一つが、ひとりひとりが生きていくはずだった時間であり、未来だったのだと感じて、涙が出た。一人で川辺で泣いているのは、少し感傷に浸りすぎかなと、自分を俯瞰的に見る自分もいたものの、その涙を止めることはできなかった。
 人間が作り出した社会の中で、人間が殺され、人間の生活が奪われることは、如何に愚かなことなのか。太平洋戦争での被害を目で見て、恐怖を実感した。きれいごとかもしれないし、結局そのような「きれいごと」にまとめてしまうことに葛藤を感じつつも、やはりこのようなことは二度と繰り返さないように市民としての意識をより高めていきたいと感じた。
 そして、なにより、そのような反戦のための行動・抗議だけではなく、世界の美しさや豊かさに自分自身の身を置き、それを感じながら空間に親和する時間をもっと増やしていこう。そう思った。


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