なんで病んだのか少し落ち着いて考えようか -思考と感情編

前回の続き。被る所も多々あるがそこはご愛嬌。


思考と感情

前回は嫉妬という一点に絞って書いてしまったが、嫉妬というのは往々にして理性的でなく認知が破綻していることが多い。それとは異なり、普段から自分を客観的に見て判断している部分を思考とした。
感情の方は……嫉妬以外の負の側面がある感情と捉えてもらいたい。

ノー勉で65点、だけど……

ぶっちゃけた話をしてしまうと自分の創作能力については平均より上だという自負がある(前回の話と少し矛盾してるけど)。でも才能があるとは思っていない。いうなれば『ノー勉でも65点取れるくらい』だと思っている。
元々文字を書くのが「そこそこ」好きだったので、劇場動画を作りたいと思った時に多くの人が躓くであろう台本作りで全く苦戦しなかった。寧ろ編集が疎かになっているのを台本でカバーしている。これは特別に練習していたとかそんな物ではない。人よりも文章構成力とか想像力が少し優れているのだと思う。練習という名の勉強をしなくてもある程度の動画を作れる。これは持って得た能力である。
だがこれは『才能』か?と言われればそれは違うと思っている。才能がある人間は65点で留まらない。表現がすごく難しいのだが、誤解を恐れずに言うと『凡人よりは確実に上だが、才能のある人よりは確実に下、天才はもっと遥か上』くらい。ほんとになんというか、確かに自分は普通よりは出来る側なのかもしれないが、それに確証を持つに至らないぐらいのなんとも微妙なラインであると思っている。

勉強して90点を取る選択肢の消失

創作における才能云々の論は往々にして「才能よりも努力の比重が遥かに大きい」とされる。ノー勉で65点取れる自力があるなら勉強して90点目指せばいいじゃないかと思うかもしれないが、一回もそれをしてこなかった。それは何故か?単純に「できない」からである。これは努力しても65点以上取れないということではなく、65点以上取ろうとする行動ができないということである。で、その理由がほんとうになんというか根が深い。

妥協癖による努力経験の欠如

自分はこれまでの人生で努力をしたことがほぼない。人生の重要なポイントをもう何回も経験してきたがいずれも努力した記憶がない(誇張ではなく事実である)。努力をしたことがないので、自分がどこまで伸ばせるか、自分の可能性というか限界というかそういった物を知らない。なぜ努力したことがないのか。それは単純で、素で65点取れる能力と、なぁなぁで済ませる悪癖が重なってしまったからだ。平均点より少し高いくらいが労せず取れる時、じゃあもうそれでいいとなってしまうタイプの人間だったのだ。怠惰……とまではいかないとは思う、妥協癖に近いか。欲しい物と楽を天秤にかけた時に常に楽を取ってしまう人間は欲しい物のために努力ができないのだ。切り替えが早いだとか現実主義と言えば聞こえはいいが、大体の場合は単純に諦めが早いだけでいいことではない。これが人並かそれ以下の場合何かしらの問題が発生するが、素の点数が高い場合本人がそれでいいなら特に問題が起きない。それに加えて自分の場合、妙な悪運の強さを持っているのがよくないと思っている。何はともあれ、努力の選択肢を回避し続けたにもかかわらず報いを受けることがなかったので、自分の中に努力するという選択肢が消失した。
さて創作にこれを当てはめるとどうだろうか。最初の1年くらいこそまぁそこそこくらいで足踏みこそしたものの、まったくの凡人と比べたら早い段階でブレイクスルーを経験して今に至る。その間特に努力はしていない。ただ、前回の話でもある通り際限のない承認欲求が満たされていない。ここで『承認欲求』と『楽』の天秤が発生しているが、自分は『楽』を取っている。これは現状でもある程度満たされていると感じているからなのだと思う。矛盾しているように思うかもしれないが、7000人の登録者と4万近い再生数、ニコニコならランキング3位以内、これらの結果を特段の努力無しに得られているならそれでいいといういつもの妥協が発生し、現状維持の選択肢を取っているのだ。ただここで病んでしまうという問題が発生したのは、今回の天秤は今までの天秤と違い捨てた方の『承認欲求』が一度の選択の結果でもう二度と会わない物ではなく一生何度も何度も天秤の選択を迫ってくるものだったということである。

努力という未知への恐怖

じゃあもう諦めて努力を取れよと言われるかもしれないが、病みを継続してでも努力できないのにはまた理由がある。まぁ理由じゃなくて言い訳だろと言われたらぐうの音も出ないのではあるが少しばかり聞いてほしい。
素の65点というのは何のキャパシティも消費していないノーコストの65点であり、残りの35点分には努力という未知の領域/可能性が存在する。人は言い訳をする時に未知/可能性を引き合いに出す。やれ俺はまだ本気出してないだけと言うよく聞くアレだ。あれの裏にはめんどくさいという至極単純な理由ともう一つ。もし努力しても何も得られなかったら?努力していない状態の自分が既に最高値で、リソースを残していると思っていたのは全部嘘だったと気づくのが怖いのである。努力という言い訳は可能性という希望を残してくれているが、その可能性が全くの嘘であったということに気づくのを一番恐れている。自分のような人間はたくさんいると思っていて、なおかつその中の多くが自分にはまだリソースが残っているという傲慢さを兼ね備えていると思う。だがその実誰よりも自分には可能性がなかったという最悪の結果を恐れている小心者なのである。自分自身がそれを如実に証明している。だからできない。動かない。現状維持。だから病む。ほぼ詰んでいる。

情熱の欠落と完璧主義

さて先ほどまでは努力だとか才能だとかなんというか嫌な方向性の話ばかりしてきたが、創作というのは本来そういう物じゃないだろ!という意見が出ると思う。所謂情熱とか探求心とかそういうコストを度外視した理論の枠組みから外れた特別なパワー的な物である。もちろん自分にもそういう物はある……あった……?と思う。初めて投稿した時は無我夢中の勢いで作ったくらいだ(初投稿動画はyoutubeに残っている)。けれども自分の中では他者よりも上記のような所謂創作の熱量が欠如していると思う。
そもそもの話、自分が創作最大の動機は承認欲求を除いた場合、『頭の中に描いた理想の具現化』である。え?それ超普通のことじゃね?と思うかもしれないが、これもまた表現が難しいのだ。
一般的な考えの場合、理想の具現化というのは例えば〇〇というキャラが好きなのでそのキャラの◇◇なシチュエーションの動画を作りたい!というような考えだと思う。自分の場合はキャラよりもストーリーから組み立てていくことが多いので少しズレるが本質は変わらないと思う。だが難しいのはここからである。

〇一般的な考え
紲星あかりが好きなので、かわいい紲星あかりを表現した動画を作りたい!
→紲星あかりの立ち絵を使い、劇場動画を作る
→紲星あかりのマスター視点でいちゃいちゃする一人称劇場の動画ができた
→「かわいい」「和む」等の評価を得た
〇自分の考え
『ストーリー性のあるシリアスな劇場動画として、ストーリーに主に評価を得られつつ、独自性のある表現も取り入れる動画を作る』
→長編のSF物が良い
→結月ゆかりを使って独立思考能力を持ったコンピュータウィルスに浸食されていくSFホラー物を作る
→コンピュータウィルスなので画面を使ったメタ的な表現を云々……

おわかりいただけただろうか?簡潔に言うと、『作成する作品がどのように評価されうるのか』という自分の情熱やらなんやらよりも作品の有用性や価値といった打算的な観点から創作を考えてしまうのだ。
これを作りたいという情熱がいったん蚊帳の外に追いやられるので必然的にモチベーションは低下する。それに加えて、作成の過程で最初に設定した目指すべき目標値に満たない(ことが殆どだが)場合に意味がないとして作成を放棄してしまう(実際には計画の段階で自身の能力と策定した目標の乖離で殆ど実行に移せない。アイデアだけはあると言ってることが多いのはこれが原因)。自分の満足の行く物が作れないと言えばよく聞くかもしれないが、自分の場合はそれが情熱ではなくもはや商品の企画のような状態になっている。思考が半分ビジネス化している。もちろん稼ぎ目的で作っている訳ではないが、金の代わりに数字と承認欲求を満たせるか?という観点での企画と能力とのギャップで破綻している。

結局言い訳

前回書けなかったことを追加で書いた。今日の内容は全般的に言い訳染みたことばかりで、自分の弱さというか醜さが文章化することでよくわかる。結局のところ妥協を選択しない心の強さや継続する意思の強さなんて抽象的ではあるけどとても大事なことが自分には欠落しているのだ。それとどう付き合うのか、妥協でない選択をできるのかは今はわからない。時間が解決してくれるのか、また同じことを繰り返すのか。今は皆目見当もつかない。
2回ほど長文で書きなぐってだいぶすっきりしたのでこの手の話はしばらくしない。こんなんいいから早く動画作れよとそう思ってる人が大半だと思うし、自分の仕事はさっさと作品を出すことなのはわかっているのだが、まぁ動けない言い訳をちょっと聞いてください的な自己正当化みたいな感覚で書いた。許して。


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