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「障害者=かわいそう」という刷り込み ~映画『コーダ あいのうた』を観て

生まれて初めて1人で映画館に行った。

それくらいに「見たい!」と衝動的に思える作品に出会ったのは今朝のネットサーフィン中。
いつものようにスマホで記事を眺めていると興味深い映画の紹介があったため手を止めた。

作品の題材はもちろんのこと、制作過程のこだわりや、監督の思いにも心を動かされ、ちょうど今日が休みだったこともあり映画館へ足を運んだ。

その作品とは、『コーダ あいのうた』

両親・兄が聴覚障害を持ち、自分ひとりだけが健聴者という少女ルビーを主人公にしており、ルビーが家族の障害と向き合いながら歌手を目指すという話である。

CODA(コーダ)とは "Children of Deaf Adults”の略で、つまり「耳の聴こえない両親に育てられた子ども」を意味する。

日本では1月21日から公開されている作品で、海外ではすでに受賞歴もあるとのこと。
映画のあらすじを言及しすぎることはネタバレにもなってしまうし、私が今朝読んで心が動いた記事を読んでいただけると映画については詳細に記載があるのでぜひこちらもご一読を。

このnoteでは映画のあらすじではなく、自分が見て感じたことを書いてみる。
かねてより抱いていたモヤモヤした部分(具体的には障害者への向き合い方)も丁寧に描写された素晴らしい作品だった。

1、マイノリティは置かれている環境で変化する


「聴覚障害者」は全体の人口から見ると少数派=マイノリティであり、作品でも家族の働く場や行く先々では仲間外れにされる疎外感がところどころで強調されている。

しかしながら家庭内では4分の3が聴覚障害者であり、主人公のルビーだけが健聴者である。つまり家族というコミュニティにおいては、ルビーだけがマイノリティ側として強い疎外感を抱いている。
家の中の描写ではここがかなり強調されている。

そして母からは「あなたも私たちのように耳が聴こえない子として生まれてきて欲しかった」といったセリフまである(文脈として否定的なニュアンスではないが)。

マイノリティ側に入らないとなかなか実感しづらいことではあるが、たしかに1人の人間が属するコミュニティの数はそう多くない。家族・学校・職場がメインであって、そこが自分の見える世界のすべてだと錯覚してしまうものだろう。

しかしながら、ある一部分の世界においてマイノリティであり強い疎外感があったとしても、環境が変わることで置かれる立場も変わる。
つまりマジョリティ側になる場所も必ず存在するのだ。

もちろんマジョリティ=善、マイノリティ=悪といった短絡的な式で語れるものではないが、こうした視点を持ち合わせられるかで、マイノリティとして苦しんでいるのであれば大きな救いになるはずである。

ルビーも、家族も、互いに依存しすぎることなく家族外の世界との接点が次第に増えていくことで、閉塞感を抜け出して生き生きとなっていく様子も一つの見どころであった。

人間は群れたくなる生き物だが、群れることでそこから外れる人が生まれる可能性があること。その人たちが疎外感・閉塞感を抱いている可能性があること。自分たちの信じている世界・群れている価値観が実はマイノリティであるかもしれないこと。見方や環境を変えることでマイノリティとマジョリティは変化しうること。

そうした部分を配慮しながら目の前の人たちや自分自身に向き合えるようになりたい。そんなことを考えた。

2、「障害」を一つの「個性」として捉える

この映画を見ていて端々に感じたことは、本作は「障害」を「障害」として押し出していないことだ。

これは前述の記事を読んでも制作でかなりこだわったことのようで、よくある「障害者=かわいそう、助けてあげたい」といった描写が極端に少ない。

上のマイノリティの話とも繋がるが、われわれ健常者(あえてこう書く)は、障害を持つ人を目にするとつい、珍しいと思い、かわいそうと思い、助けてあげたいと思ってしまいがちだ。

だが、本作で出てくる聴覚障害の家族たちはとにかく強い。
障害を一つの個性として受け入れて堂々と生活・仕事をしている。そこがかっこいいし、障害を題材にする作品としては新鮮な描き方だ。

もちろん当事者にしか分からない苦しみがあり、葛藤があり、大きな不便もあるだろう。
が、逆にできることもたくさんある。むしろできることのほうが多い。

自分の兄は生まれつき脳に重い障害を持っているし、私自身も目の障害で将来失明する可能性もゼロではない。
だからこそ障害者はけっして他人事ではないし、自身や他者への向き合いかたはずっと考えてきた。

その原体験が大学で作業療法士を目指すことに繋がったし、資格を取るための大学時代の実習でもたくさんの障害を持つ方々と出会ってきた。

だが、どうしても長い間「障害を持っていること=かわいそう」と思ってきた。この感情が抜けきれなかった。
どうして兄が、、どうして自分が、、どうしてこの人が、、と不遇を憂いた。それは自分の中で障害=自分の意思でどうにもできない運命であり、「障害=かわいそう」という刷り込みがあったからだ。「障害者は大変」というバイアスだ。

けどそうじゃない。できないことがあることも個性だ。障害も個性だ。
むしろ全てが完璧な人なんていないから、もはや障害者/健常者という二軸で区分することなどできない。
みんなが「几帳面」、「せっかち」、「早口」と個性があるように、その一つとして「目が見えない」「耳が聴こえない」「歩けない」があるだけではないか。

だとしたら、障害者=かわいそう、助けてあげたい。はむしろ失礼な感情だ。
ラーメンを食べるのが人より少しだけ遅いだけで「かわいそう」と言われて「食べるの手伝ってあげるよ」と丼を取り上げられるくらいナンセンスなことなのかもしれない。ありがた迷惑だ。味玉は最後に取っておく派だったのに。

自分にできることは、障害を一つの輝く個性として捉えて、画一的な見方ではなく、一人一人の「あなた」としてどんな相互協力ができるかを対話し、その中で必要に応じて手を差し伸べ「合う」ことだと思う。

決して一方通行になってはいけない。支援になってはいけない。寄り添いすぎることが機会を奪ってしまう可能性があることを忘れてはいけない。

そう改めて考えた帰り道だった。

───

自分を犠牲にしすぎることなく、依存しすぎることもなく、外の世界へ目を向けて挑戦する勇気をもらえる映画でした。

ネタバレを避けたかったので作品内容にはほとんど触れませんでしたが、主人公ルビーが観衆の前で歌を披露するときに、突然家族側(聴覚障害者)に移入し、沈黙が続くシーンは鳥肌が立ちました。
歌を題材にしているので、映画館の音響だとより楽しめると思います。ぜひ。

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