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A先輩の思い出



 オレは高校生の時に図書委員だった。オレの母校の図書委員というのは定員が決められた係ではなく、やりたい人がボランティア的にやるというもので、本好きなオレは「希望して」その係を引き受けたのである。図書館長だった先生、司書の実習助手の方には本当にお世話になった。そして図書委員の一年上だったのが、成績も良くイケメンのA先輩だった。図書委員の女子はほぼ全員A先輩のファンだったと思う。



 A先輩は医学部を志望していて、現役の時は阪大医学部を受験したが残念ながら浪人することになり、豊中にあったYMCA予備校の医学部進学コースに南河内からはるばる通っていた。しかし翌年春に京大文学部に合格したオレと同学年となったA先輩は理学部に進学していた。オレのボロアパートのほど近くにあった新築のマンションのワンルームにお住まいだったA先輩とは、一緒に晩飯を作って食べたりと最初はわりと交流があったのである。「オレら二人とも医学部目指してた落ちこぼれやな」と自虐的に語ったことを覚えている。




その後、サイクリング部の活動や日々のアルバイトで忙しくなったオレはあまりA先輩と会うこともなくなり、卒業後の進路も知らなかった。ただ母校の高校で受けた教育実習にはA先輩も来られていたので、理科の教員免許は取られたのだと思っていたのである。そのときも球技大会で高校生の生徒にまじってA先輩は活躍しておられた。そういえば京大に入学した時にアメフトに入部希望したが、線が細かったので断られたということを仰っていた。



 それから長い年月が経った。オレは何気なくネットでA先輩のフルネームを検索してみた。すると大阪のとある総合病院の院長先生のところにその名前があったのだ。掲載された写真はまさにA先輩のご尊顔をそのまま少し老けさせてふっくらさせたお顔だった。A先輩は京大理学部を卒業されてからどこかで医学部を再受験し、そして医師となっていたのである。オレはなぜかその病院のサイトを眺めながら涙が止まらなかった。苦労をして高校生の時の夢を実現した先輩のその立派な生き方にただ感動していたのである。なんとすごい人なのだろうかと。





 オレは数十年の年月を無為に過ごしてきた。大学では勉強もしないでサイクリング部の活動ばかりに熱中していたし、大学を出てからも本気で書くことにうちこむわけでもなく、パソコン通信の世界で駄文を書き続ける程度で本気で作家になろうともしなかった。そしてただの銭ゲバとなってひたすら株式投資や為替取引でゼニを稼いで資産を拡大し、いつのまにか投資だけで食える程度のゼニを貯めた。最近になってようやく本業の方の仕事を失ったとしても大丈夫なところまでこぎ着けた。




 リーマンショックで資産を溶かして死にかけたこともあったが、なんとか無事に生き延びてきた。しかし、はっきり言って世の中にはろくすっぽ貢献できていなかった。ネットで書いた雑文も本当にくだらないものばかりだ。オレがふがいなかったせいで大阪の教育は崩壊し、維新の連中の思い通りにめちゃくちゃにされてしまった。維新の会という反社レベルの連中が大阪を破壊していくことを止められなかったのである。オレがきちっと政治を目指し、自分を犠牲にして世の中の人のために奉仕するという生き方を選んでいればもしかしたらあんな連中の好き放題にはされなかったかも知れないのである。オレはそれが残念でならない。




 医師として多くの人のために働いているA先輩と、ネット上でくだらない罵倒しかできないオレと、どちらが社会に必要な人であるか、そんなこと言わなくてもわかるだろう。オレはやっぱりA先輩には遠く及ばなかったのである。高校生の時に図書委員の女子にふられたことも至極もっともなことだったのである。



 よりよく生きるとはどういうことなのだろうか。オレは残された自分の人生とどう向き合えばいいのか。過ぎ去った時間はもうもとには戻らないのである。医学部に入り直したA先輩のことを知っていれば、オレは果たしてどんな選択をしただろうか。

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