見出し画像

車椅子映画館介助問題のデジャブ感

久しぶりに時事ネタ的なネット議論にいっちょ噛みしてみますよ。

ある車椅子生活の方が、とある映画館にてこれまで介助を得てプレミアムシートで映画を観ることができていたのだそう。しかし、この度映画館の責任者からお断りの言葉をもらい、プレミアムシート鑑賞の介助が得られなくなったと。この悔しさを先日Xでポストしたところ、賛否両論の大激論がネット上で勃発したという流れです。

これを受け、すぐさま映画館側も謝罪の文書を発表。

謝罪を受けて事態は沈静化するどころか、これはこれで、ネット上の皆さんの心に火をつけて大変な騒ぎとなったわけです。


実際の議論に対する応答は後で紹介するとして、江草の最初の所感としては「またこの議論来たかー」というものでした。

というのも、数年前、車椅子の方のJR地方駅利用の乗車拒否問題で同様にネット上は大激論を交わしていたからです。

もちろん、このJR乗車拒否問題と今回のシネマプレミアムシート拒否問題で、当事者の言動や状況の細かいセッティングは異なるものの、大枠としては同じタイプの賛同意見や批判意見が多く、デジャブ感があるのは否めないところです。

誤解しないでいただきたいのは、「またか」とか「デジャブ感」と言っても、具体的な事例からこうした議論が発出されること自体をどうこう言ってるわけではありません。「車いすユーザーの方がまた同じようなクレーム言ってるよ」とか「車いすユーザーは黙っとけ」的な意味ではないんです。

そうではなく、江草としては、こうした事例を受けてのネット議論の中で全く同じような賛否のコメントが繰り返し出てくるのが不毛すぎて残念だなと思うんですね。なんか同じようなコメントでみんな満足しちゃってることに正直「またか」感があるわけです。こう言うとなんですが、多少は前例を踏まえての進んだ議論をして欲しいなあと。


で、今回、江草はいっちょ噛みすると申しましたけれども、実のところこの数年前の車いすJR乗車拒否議論の時にブログ記事をいくつか書いていて、それに江草自身の考えが出ているので、それを引きながら簡単に応答を述べていってみます。


「現場労働者がかわいそう」

まず、ちょいちょい見かけられるのが「意見を言うこと自体は認めるがそれを現場の人間にぶつけるな」論。

声をあげる人がいるから社会が変わる論はまあ否定しないけど、その対象は社会みたいな大きな単位にするべきで、限られたリソースで懸命に働いている現場の人間に義務以上の負担をかけるやり方は、俺は否定的に見る。

https://b.hatena.ne.jp/entry/4750765849347098432/comment/keshimini

これは、JR乗車拒否問題においても多かったタイプのコメントで、まあまあ「星」や「いいね」がつく人気の意見です。

江草自身ももちろん現場の人の苦労は分かりつつも、それをことさらに強調することは事実上「人間の盾」戦略に加担することになるのではという指摘をしています。

人間の盾(にんげんのたて、Human shield)とは、軍事および政治用語である。
敵に、目標物の内部あるいは周囲に民間人がいることを敵に知らせることにより攻撃を思いとどまらせることをいう。また人海戦術による軍事作戦において民間人に兵士の前を進むことを強制し兵士の安全を図ることもこれにあてはまる。傷病者の状態改善に関する第4回赤十字条約(ジュネーヴ条約)の締結国において禁止されている。

「人間の盾」-Wikipedia

みなさまもご存知と思いますが、今の時代、何か問い合わせや苦情を言おうとしたら、AIチャットなり自動音声対応だったりコールセンターなりが次々と登場し、全然責任者につながらないんですよね。

「こういう契約だったのに守られてないのはおかしいじゃないか」と文句を言いたくとも、当の対応相手が事情を知ってるわけでも契約責任者でもなく「そのように上に報告しておきます」「また折り返しご連絡いたします」ぐらいしか言えない末端の窓口人間に過ぎないので、どうにも話にならないし、責め立てるのも可哀想なので、こちらもいかんともしがたくなる。

サービス側がこうした責任者ではないただの従業者にすぎない「人間の盾」を前線に置くことによって、多少の不具合や契約不履行を諦めさせ泣き寝入りさせる効果は少なからず生じているように思います。つまり「現場の人間に迷惑をかけてはいけない」というユーザー側の人情を、(どれぐらい意識的かどうかはともかく)サービス側が自身の責任逃れに悪用してるところが否定できないんですね。

ゆえに、特に外野の人間が「現場に迷惑をかけるな」をことさらに強調することは、実質的には「人間の盾」を人質にした意見抑圧につながってることは意識されるべきでしょう。


「感謝の言葉ぐらい言え」

また、他でよく見られる議論は「感謝の気持ちを表していたか」を疑問視する声です。

これも支持が多い意見の一つですね。このタイプの意見も、JR乗車拒否問題でも多数見られていました。

ただ、この「ありがとうと言わせようとする仕草」もまた車椅子ユーザーの方々からするとかなりストレスが溜まるものであるということは、今回も指摘されていますし、

前回の議論の時からも既に指摘されています。

当時もあまりスッキリした議論がなされてない印象だったので、なぜ「ありがとうと言わせようとすること」がモヤモヤするのかについては江草も過去ブログで考察を加えてます。

つまり、「感謝するのは当然だ」という義務論的な態度を取られたり、「介助と引き換えに感謝の言葉を言え」と交換の論理を適用されたり、ましてや「感謝しろ」と命令されると、たちまち「感謝」の意味は変質してしまう。そういう難しい特性が「感謝」にはあるわけです。

だから「感謝の気持ちは表明していたのか」と疑問に思う気持ち自体は分かるものの、ことさらにそれを強調することは、かえって感謝の気持ちの妨げになるというパラドックスがあることは意識されるべきでしょう。


「やり方が悪い」

こうした「現場の労働者に迷惑をかけるな」とか「感謝の気持ちを言うなどしてポジティブな方法で訴えかけるべき」という意見もそうですが、総じて多く見られる批判的意見は「気持ちは分かるが強い言葉を使ったりトラブルを起こすのは良くない」というスタンスでしょう。「そんな野蛮なやり方ではなく丁寧に誠実に感謝の言葉を交えながら世に主張を述べなさい」と。

この意見、江草も気持ちは重々分かるのですけれど、それでも必ずしも本当にそれが通用してるという保証はないですし、少なくとも苦悩している当事者たちは「全然意見を聞いてもらえてない」と感じていることは無視できない要素でしょう。つまり当事者からすると「丁寧な言葉で言っても誰も耳を傾けてくれないじゃないか。もう実力行使的にトラブルを起こすぐらいしかしょうがないじゃないか」となるわけです。

いわゆるトーン・ポリシング問題ですね。

トーン・ポリシング (英語: tone policing) とは、論点のすり替えの一種であり、発生論の誤謬に基づいて人身攻撃を行ったり議論を拒否したりする行為である。発言の内容ではなく、それが発せられた口調や論調を非難することによって、発言の妥当性を損なう目的で行われる。

「トーン・ポリシング」 -Wikipedia

この点についても当時から過去ブログで考察を書いています。

実際、他の物事で考えてみると分かりやすいと思います。

例えば、労働者の賃上げ。言葉で「給料あげてください」と頼んでも全然上げてくれない。そういう時には「ならばストライキだ」と労働者側は実力行使に出ることになります。そしてそれは法律上も認められた正当な権利なわけですね。

つまり、言葉だけでなくトラブルを引き起こすことで主張を通す交渉方法自体は正当な手法の一つとして認められているわけです。(これでさえ「迷惑だ」という意見は強いですが迷惑だからこそ意味がある手法でもあるわけで複雑です)

もちろん、だからと言って労働組合がテロ行為を働いていいというわけではないことからも分かるように、物事には限度があります。今回のような車椅子ユーザーの方の訴えは、あくまで私的なSNS発信に基づくもので、法的に認定されている労働権とは全然異なりますから、「限度を超えたもの」であるかどうかは個別具体的な検討を要するでしょう。

しかし「トラブルを起こすことなく丁寧に感謝を交えた言葉のみで主張を通すことを図るべき」というのも実際には「トラブルでも起こさないと意見が通らない世の中」において随分とナイーブな意見であるとは思われます。


とはいえ理想論も通用しない

と、ここまでは車椅子介助を促進する方向に同情的な説明ばかりをしてきましたが、「そうは問屋がおろさねえ」と、逆向きの課題もちゃんと指摘したくなるのが江草の天邪鬼な性格です。だって、そんな単純な話だったら、そもそも議論にならないでしょう。

確かに車椅子介助が進んでJR駅だったり映画館だったりが自由にバリアフリーで利用できるようになるのが理想ではあります。ただ、現状、その理想論を妨げる社会的現象が立ちはだかってることもやはり確認しておくべきでしょう。

しかもこれが、進歩的な意見に反対している分からず屋の悪者が邪魔しているという(往々にして提示されがちな極めて素朴な)ストーリーではなく、むしろ「個々の人間の価値が上がった」「人々が自由になった」というヒューマニズムのある種の理想が実現したからこそ起きているというパラドックスになってることがこの問題解決の厄介さの源なんですね。

大体、何かが揉めてる時は、ある理想が他の理想と衝突してジレンマを形成している時なのです。

ここからはそういう視点の切り口で見ていきましょう。


「ジョブ型社会」のジレンマ

さて、今回の件でも指摘されていたのが、素人がその場の判断で下手な介助するのは危険という意見です。

いかに良かれと思った介助行為でも素人の技術や経験では思わぬ危険につながるから控えるべきというものです。つまり「昔はその場の人間で助け合っていた」という牧歌的な意見をピシャリと制止しているわけですね。

車椅子のバリアの問題に関して言えば人力でどうこうするよりもスロープやエレベーター設置などのハード面での解決しかないという結論になっているようですが、「人力でどうにかできるかどうか」という判断自体、素人には不可能であるということを暗に示しているこれらの意見は、つまり「何事もプロに任せるべき」という社会文化を体現するものに他なりません。

実際、こうした「人の安全に関わる作業はプロに任せるべき」という思想は社会を覆っていると考えられます。

子育てに関しても、かつては近所の隣人同士で子どもを預けあっていた雰囲気がありましたが、今では「預かって何かあったときに責任が取れないから」と言って忌避されるようになったところがあります。つまり、子育てについても素人でなく育児のプロたる保育士さんたちに任せるべきとなってるわけですね。

これは何も意地悪でこういう雰囲気になっているわけではなく、むしろ皆が総じて人命や人の安全を尊重しているからこそ「プロがやるべき」となっていることが重要です。安全を担保するために、極論、介護は介護のプロが、育児は育児のプロが担うべきなので、駅員や映画館スタッフや周囲の客が出る幕はない、そういうことになってるわけです。

言ってみれば、みんながその時その場で柔軟に臨機応変に助け合っていた「メンバーシップ型社会」から、プロがそれぞれの職務を全うすべきで互いに下手に干渉するべきではないという「ジョブ型社会」となっているという見方もできるでしょう。

プロでもないのに下手に手を出して事故が起きたら責任が取れない。担当者がプロであることが重視されるジョブ型社会においては悲しいことに「善きサマリア人の法」の保護が得られないのです。

善きサマリア人の法(よきサマリアびとのほう、(英語: Good Samaritan laws)とは、「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗しても結果責任を問われない」という趣旨の法である。良きサマリア人法、よきサマリア人法ともいう。

善きサマリア人の法 -Wikipedia

こうなったら、おいそれと素人が善意の気持ちからであっても手を貸すことは難しくなります。人々の安全意識が高まったからこそ、人からの支援の手が消極的になるというパラドックスがここにあるわけです。

つまり、こうした安全重視のジョブ型社会においては、十分な訓練や経験を積んでない従業員が介助をすることの方が危険行為として非難される。ならば、それを強く要求する被介助者も危険行為の実施を求めたとしてむしろ不適切行為の責任が問われうる、と、そういうことになるわけです。

ちなみに、プロ扱いであればなんでもいいというわけではなく、『ママがいい!』の著者である松居和氏は、保育園の保育担当者の要件緩和によりその質が下がったと指摘。子どもの心身の安全面や健康面を保護する観点から、安易な「ほぼ素人」の保育参加を問題視しています。

(保育者の質が本当に下がったかどうかはもっと慎重に検討すべき事項と思いますが、それは本題でないのでここでは置いておくとして)

このような意見にも表れているように、プロであることを重視するジョブ型社会というのは、一見するとドライで殺伐しているようでいて、その実、「個々人の安全を大事に思うからこそ」というわりとウェットなロジックに裏打ちされているのです。(悪名高い新専門医制度も「医療の質を担保するため」という名目ですし、医学部定員拡充反対派もだいたい「医師を増やすと質が下がる」というロジックを用います)

ここで興味深いのが、このジョブ型社会においてプロである義務を免れる身分が存在することです。それは「身内」です。介護や育児については、親族や家族、あるいは自分自身が行う場合では、プロでなくても良い範囲が格段に広がります。実際、先ほどとりあげた保育士の質の低下を憂う松居氏であっても、親という素人が子育てを担うことは問題としてません。むしろ推奨するぐらいです。

つまり、当人たち(身内同士)が行うなら自己責任として処理できるが、他人が実施するにはその人が責任を取れるぐらいの十分に質の高いプロフェッショナルでないといけないと、そういうことになってるわけですね。

この構図から見て取れるように、自助、共助、公助で言うところの、中間的立場の共助(コミュニティ)の役割がスパーンとなくなって、自己責任の自助と、プロ責任の公助の二極化になってるのが現代社会の状況と言えるでしょう。

ならば、自助でも公助でもなく、共助に近い立場に過ぎない近隣の民間商業施設において果たせる役割は多くなく、自分で介助してくれる親族を集めるか、公的支援を活用してプロを呼び寄せるかしてくださいと、そうなるわけです。

人の価値を尊び、人の安全を重視するからこそ生じたこうしたジョブ型社会ゆえに、皮肉なことに要介助者はその場に居合わせた人から柔軟に介助を受けられなくなってるジレンマがここにあるのです。


人手の希少価値の上昇と、選好の偏向

さて、上記の「ジョブ型社会のジレンマ」は責任を取れるかどうかという視点でしたが、そもそも人手(労働者)の希少価値が高まっているという事情も無視できない大きな要素です。

以前、江草も過去にnoteで書いたことがありますが、社会が豊かになればなるほど人手は貴重になり、人を使役して何かしてもらうハードルが格段に上がるという事実を押さえておく必要があります。

 貧困国の不平等がとてもひどく見える理由の一つは、個人宅で雇われる使用人の数に関係している。そこそこ中流の家でも家事を使用人に任せることが多い。誰もがメイド、乳母、コックを雇うことは言うまでもない(このような仕事をさせる雇い人が一人か二人か三人かで社会階級がうかがえる)。運転手、さまざまな家庭教師、そしてもちろん警備員も雇う家庭が少なくない。私はまだだいぶ若かったころに、メキシコシティで数週間働いたことがある。日曜の午後に経営者の家に招かれ、そこで仰天した。周りでうろつきながら私がコロナビールを飲み終えるのを待って、お代わりをとりにいくことが仕事のような使用人がいたからだ。プールサイドでそんな状態ではくつろげないと感じたのは私だけらしかった。
 なかなか言うことを聞かない家具の組み立てや電球の交換をしようとするとき、このことにふと思いをはせる。「ああ、世界で指折りの豊かな国に住んでいるんだな」と独り言をつぶやく。「なんで自分で家具を組み立てたり電気をいじったりしなきゃいけないんだ?」答えはもちろん、まさしく、、、、世界で指折りの豊かな国に住んでいるからこそ、自分で電気いじりをしないといけないのだ。労働力の生産性が高まって、たいていの人は他人の照明器具の取り付けより時間を有効に使える仕事をしているからだ。それが因果か、そうしたほかの生産的な職業から労働者をおびき寄せるには金がかかる。電気工を呼んで電灯を取り付けさせる料金は、たいてい電灯そのものより高くなる。

『資本主義が嫌いな人のための経済学』 pp. 266-267

この場合は、奢侈なサービス受益のイメージで描いていますが、介助行為にもこの事実は直撃します。

社会の皆が豊かになればなるほど、生産性が高まれば高まるほど、人に助けてもらうハードルが上がる、すなわち介助行為を受け難くなる。こういう事態に陥るわけです。

社会が豊かになったらいっぱいケアをしてもらえるようになるのではなく、社会が豊かになったからこそケアが受けづらくなるというパラドックスがここにあるんですね。なぜなら生産性が高まったからこそ人(労働力)の市場価格が上がっているからです。

世の中で車椅子介助の問題だけでなく、育児や介護の担い手の問題が噴出しているのも、まさに世の中が豊かになったからなんですね。

なんなら「セルフケア」という自助努力の役割が注目、重視されるようになったのも、先の引用にもあるように、豊かになった社会では「自分で家具を組み立てたり」「自分で電灯を変えないといけない」からと言えましょう。つまりDIYの一環として自分の心身のケアやメンテナンスも自分でやるしかなくなったと。そんな自分で自分のことをあれこれやらないといけなくなった時代では他人のケアまで担うハードルが必然的に上がってしまうというわけです。

労働市場での価格がすなわち人の価値というわけではないので適切ではない表現なのですが、あえて雑に言ってしまえば、「人の価値が高まってそれが評価されて高価格がつく」というある種のヒューマニズム的な理想が実現した結果として、市場外の相互ケアが手薄になっていくという困ったことになってるわけです。

実際、先ほども取りあげたストライキ活動だって、往々にして「我々の価値を認めてこの価値にふさわしい賃金を与えろ」というヒューマニズム的なお題目が掲げられてるわけですから、「賃金上昇は人間の価値を尊ぶ良い考えだ」と認識されてる側面は否定できないでしょう。

豊かになって、生産性が上がって、人件費が上がって、最低賃金が上がる世の中においては、無償で追加のケア活動をする余裕やインセンティブがますます減っていく。つまり現場で追加で善意の活動を抑制する因子がますます強力になる。これも現場での車椅子介助の促進を阻む厄介な社会的ジレンマなんですね。


さて、この流れで注目したいのが、このポスト。

(あまりに口が悪すぎることはさておき)このポストは2つの重要な論点を提示されています。

まず一つは人口動態の問題。言わずと知れた少子高齢化問題ですね。

先ほどから豊かになればなるほどケアに回す余力が乏しくなるという話をしていますが、少々雑に言ってしまいますと、それが育児にも及んだ結果がすなわち少子化です。ご存知の通り、育児はめちゃくちゃケアに回すマンパワーを要求する活動ですからね。

しかし、少子化が進行すれば時間が経つにつれなおさら労働力が希少になるわけですから、ますます労働力の希少価値が高まって、ますますケアに回すインセンティブが減るというスパイラルに突入します。このスパイラルをどう断ち切るかが少子化問題を考える上でキモになるわけですが、先ほどから申し上げてる通り、これが社会を豊かにした結果であり、ある種のヒューマニズム的精神に基づいた結果でもあるので、それゆえに簡単に悪として打ち切れないからこそ厄介なのですね。

で、図らずも少子高齢化社会に突入した私たちの社会では、ダブルケア問題が発生するなど、身内のケアを回すだけでもてんてこ舞いになりつつあります。

そんな中で、さらに車椅子介助のような現場でのケアにマンパワーを割くことが受け入れられるかどうか。そういう問題が立ち現れてくるわけです。


そして、もう一つ指摘されてるのが、「当然介助するべき」と言ってる論者たちも実際にはケア活動のような現場肉体労働を忌避しているのではないかという問題です。

ケア労働従事者数は年々増加傾向にあるようですが、それでも現代日本で主流の仕事(少なくとも王道扱いされてる仕事)はホワイトカラージョブのオフィスワークスタイルです。世の「仕事術」「ビジネス書」を紐解いてみてもことごとく暗黙の前提としてメールやパワーポイントやchatGPTを駆使する「仕事」を想定していることがその証左でしょう。

つまり、多くの人はケア業務を選んでいない。なんなら、「そういう職に就かないで済むように」と自身や我が子の学歴を高めるのに必死であるという見方さえ可能です。みんな意識だけは高くて「介助すべき」と言うけれども、皆の自由意思での選好はむしろそうしたケアから離れることを意図している傾向がありありと出ているではないかと。

『タイムバインド』という書籍でも、同じ育児支援制度でも子どもと長く一緒にいられる制度(時短勤務など)よりも育児を肩代わりしてくれるサービス(保育園など)の利用率が格段に高いことが指摘されています。

だから、いわば"Not In My Business"とも呼べるような問題提起なんですね。「社会にとってそうした介助が必要だということを支持するけれど、それをやるのは私以外で」というわけです。言わずと知れたNIMBY(Not In My BackYard)問題からのもじりです。

NIMBY([ˈnɪmbi]、またはnimby)は、「not in my back yard(我が家の裏には御免)」という語句の頭字語である。「施設の必要性は容認するが、自らの居住地域には建てないでくれ」と主張する住民たちや、その態度を揶揄する侮蔑語(総論賛成・各論反対)も意味する。

「NIMBY」 -Wikipedia

社会の実に多くの人が結局はケア活動や現場仕事を忌避しているように見える中で、「介助すべき」「配慮すべき」と言ったところで「自分以外の誰かがやるだろう」という他人事で無責任な綺麗事ではないかということですね。

ケア担当を避ける人の言い分としては、ケアを直接担う代わりにお金を稼いでるんだ(その分高い税金や寄付をしてるんだ)とか、そうしたケア活動が快適に行えるように社会を豊かにしてるんだとか、優秀である私はケア活動をするよりも社会に貢献できる仕事があるんだとか、ケア活動を支援するためにこそ読書や学問に注力し言論活動という後方支援活動をしてるんだとか、そういうものが出てくるわけですが、言い訳がましいと言えば言い訳がましいわけですね。お金が現実世界で直接何かをしてくれるわけではないし、社会が豊かになることはむしろケア問題を深刻化させる側面もあるし、自分が優秀であることを示そうと人々は不毛なアピール合戦に明け暮れてるし、最後もまんま高等遊民感があるわけです。

要は「色々清く正しそうなこと言ってるけど結局自分はやりたくないってことなんでしょ」と。

江草もどちらかというと現場感が薄い方の仕事を担ってる側なのもありまして、とても耳が痛い話です。

とはいえ、この問題提起は「お前だって論法」に近い対人論証の誤謬に片足を突っ込んでますから、「どうせ自分ではしないくせに」で話を片付けるのも議論のあり方として適切とは言えません。

お前だって論法(おまえだってろんぽう)は、相手の主張する議論を貶めるために、相手がその主張に沿った振る舞いをしていないと断言するような論法である。

お前だって論法 -Wikipedia

今回のような人的リソース配分に関する議論においては「誰がやるのか」自体が論点であるのもあり、全く的外れな批判というわけではないものの、一般論として「もっとリソースを割くべき」と言った途端に「じゃあお前がやれよ」となるのでは、事実上、保守的な意見を出すことや沈黙を守ることぐらいしかできなくなるので注意が必要でしょう。

会議などで問題や改善点を指摘したらその問題解決を言い出しっぺに任せる慣習(ありがちですね)が常態化すると「誰も自分の負担が増えるのを恐れて問題を指摘しなくなる」という、集団としては余計まずい思考停止状況に陥るのと似た構図です。

「そういうお前はどうなんだ」などの人身攻撃を受ける心配がない、心理的安全性が保たれた場でないと自由な意見発出や健全な議論が妨げられるという点は留意すべきところかと思います。

ともかくも、以上のように少子高齢化によるマンパワーバランスの切迫と、自由意思に基づく人々のケア担当や現場労働忌避の傾向があって(人々の自由意思を尊重するのも一つのヒューマニズムの理想であるわけで)、現場でのケア業務の拡充を訴えるには逆風が吹いてると言わざるを得ない現状ではあるわけです。


なお、少し話題としては逸れてしまいますが、先のポストのリプ先にある「経営者と資本家が諸悪の根源」みたいな考え方も、事実関係も確認しないままでの拙速な「悪魔化」感が否めないので注意が必要でしょう。

こういうコメントもあります。

江草も、そもそも現在の政治経済状況においてはもはや「労働者VS資本家」という図式自体が古いのではという記事を以前書いております。

なので、悪徳資本家みたいな誰かスーパー悪者がいるというよりも、自分も含めた社会みんなが関わる問題であると考える方がいいんじゃないかなと思う次第です。


考えることが山ほどある

というわけで、今回、時事ネタの車椅子介助問題について簡潔に概括するだけのつもりだったのですが、すでにまさかの11000字超え。「いっちょ噛み」ってなんやねんという話です。

ただ、逆に言うと、議論のポイントを簡単におさらいしていくだけでこれだけ文字数がかかるということです。しかも、これですら正直ごく一部もいいところでしょう。

随分長い記事になった割に、江草も仕事や育児の合間を縫いながら駆け足で書き上げたので、そこかしこに雑な考察部分があったかも分かりません(力不足で申し訳ないです)。しかし、今回お伝えしたかったのは、いかに今回の車椅子介助問題が複雑な社会的倫理的課題であるかです。この点だけでも伝わっていればOKです。

とにかく、考えることが山ほどある問題なんですね、これは。

なので、JR乗車拒否問題の時の焼き直しみたいな議論が繰り返されて終わりというのは、富士山に登るのに何年経っても麓でずっと足踏みしてるみたいな、ヤキモキする状態なわけです。なんかせめてもうちょっと進んでみませんか、と。(まあ、もちろん、前回と今回ではコメントしてる参加者も同一というわけではないでしょうから、必ずしも足踏みと言えるものでもないのですけど)

ヤキモキした結果、多少なりとも議論の前進につながる足場となれればと、ド素人かつ未熟者ながら本稿を書かさせていただきました。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。