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子育て世代が欲しいものはお金か時間か

こないだたまたま流れてた番組でどこかの偉い先生と思われる方が少子化問題について解説されていたのを聴きまして。

偶然過ぎて、何の番組だったのか、どなただったのかも分からないのですが、だいたいこのような主旨のことを語ってらっしゃいました。

子どもを作りたくない理由として「お金」が挙げられやすいけれど、ほんとは「自由な時間が欲しい」というのが子育て世代の本音なんですよ。みんな理由を聞かれたらその場ではとりあえず「お金がないから」と答えてるだけで、アンケート調査には見えてこない「時間的余裕が欲しい」という彼らの心の声を受け止めないといけない。

めっちゃうろ覚えなので、全然正確なセリフじゃないですが、こんな感じの話でした。

これを聴いていて、江草としては「さすが興味深いポイントの指摘だなあ」とまず思いつつも、「でも半分同感半分違和感だなあ」というのが正直な感想でした。


まず、おっしゃる通り、子育てを忌避する理由として「時間的余裕の無さ」は非常に重要なポイントだと思います。ここは全くもって同意します。

最近では少しずつこの問題にも着目されてる印象はありますが、まだまだ全然サポートが足りてないのが現状であり(江草も「パパママデートができない問題」を以前noteで語ってます)、これでは少子化問題の解決は程遠いだろうと感じます。

ただ、「子育て世代が欲しい物はお金ではなく自由時間なのだ」というまとめ方にはどうにも違和感があります。

なぜなら、お金と自由時間は相互に密接な関係があるもので、全然独立要因ではないからです。


たとえば、世の中にFIREムーブメントというのがありますね。十分な資産を貯めてそれから得られる配当や利子、賃料などの不労所得を確保することで仕事を辞めても生きていけるような経済的独立を果たそうというものです。これはまさに「お金を得ることで自由になろう」すなわち「お金こそが自由への道」としているわけですから、「お金と自由は不可分である」とする象徴的立場と言えるでしょう。


あるいは、ベストセラー書籍『お金の大学』でも知られている人気のYouTubeチャンネル「リベラルアーツ大学」も、「お金の力で自由を獲得すること」を「リベラルアーツ」と表現しており、同様にお金と自由の密接な関係性を象徴しています。


実際、私たちが「ビル・ゲイツぐらい億万長者だったらいいのになあ」とぼやく時、「彼ぐらい大金を持っていれば自由に好きなことをして生きられるのにな」という気持ちが背景にあるものでしょう。ビル・ゲイツのような大金持ちに憧れる時、私たちは「お金」そのものだけでなく、(下手するとそれ以上に)お金を通して得られる「自由」に憧れているのです。

こうして見ると、「お金があれば自由になれる」あるいは「お金がないと不自由だ」という感覚が、(その是非はさておき)社会的に広く浸透しているものであることは間違いないでしょう。

しかも、そもそもの話題となっている育児シーンにおいても、同じ構図が当てはまります。「育児と仕事に追われて自分の自由時間が取れない」という問題があるとして、もしお金が潤沢に使えるとしたら、ベビーシッターを好きなだけ雇えますし、就労要件が不問な(えてして高額の)認可外保育施設に預けることだってできます。
つまり、育児シーンにおいても(これまたその是非はさておき)「お金があれば自由は得られる」と言えます。


ですから、冒頭に挙げた解説における「子育て世代が欲しい物はお金ではなく自由時間なのだ」というまとめ方は、「お金」と「自由時間」を二者択一で選択するような別物かのように扱ってしまってる点に違和感があるのです。これまで見てきたようにむしろ「お金」と「自由時間」は密接につながっており、どちらかだけを選ぶようなものではありません。

もちろん、逆に細かいことを言えば「お金」と「自由時間」は必ずしも本質的な意味で一心同体とも言えず、ほんと言うともうちょっとここ(お金と自由時間の関係)は議論ができるポイントではあるのですが、少なくとも現代社会において「お金で自由を得る」という意識が人々の間で相当に優勢であることを考えれば、やはり「子育て世代が欲しい物はお金ではなく自由時間なのだ」というのは、的を射た解釈とは言えないでしょう。


とはいえ、「半分同意半分違和感」と評したように、「子育て世代が欲しい物はお金ではなく自由時間なのだ」という解釈が全くの的外れであるとも思っていません。(「お金ではなく」という部分はさておき)「自由時間が欲しい」という気持ちは本当に育児世帯の誰もが心のうちに秘めているものと思います。

だから、ここは解説の方自身が指摘されていたように、その心の声をさらにもっと深く探ることが重要でしょう。この場合の「お金ではなく自由時間が欲しい」という心の声のほんとのほんとの本音はどういう意味になるのか。


ちょうどこの記事に「お金よりも自由時間が欲しい」と同様の構図が見て取れる「当事者の声」が掲載されており、考察の題材に有用と思われるので引用します。


働き続けることを求められているのに、子どもを産めと言われる。2人は、必要なのは子育て給付より「休み」だと言う。

パートナーの反対、結婚への疑問、働き詰めの毎日──産まない女性の「本音」#性のギモン


うん。とても「お金よりも自由時間が欲しい」っぽいですよね。

こうした声を見ると冒頭の解説の方のように「子育て世代が欲しい物はお金ではなく自由時間なのだ」と解釈したくなるのも分からないでもありません。

でも、よくよく見るとこれは厳密にはちょっと違うニュアンスであることに注意してください。

「休み」と「自由時間」の方も厳密には違うんじゃないかという議論もできそうですが、ここではそちらではなく「子育て給付より」と表現されてることの方に注目します。

あくまで彼女たちは「お金よりも休み」と言ってるのではなく「子育て給付より休み」と言っているわけです。ここが重要と江草は思うのです。


自治体によって独自の支援がある場合もあるかとは思いますが、全国共通の子育て給付の代表例と言える児童手当の現状は以下のようになっています。


児童手当制度のご案内 ―内閣府


子の年齢や、第3子以降にあたるか、世帯収入などに左右されますが、子ども1人あたりたかだか月15000円までの支給です。

いや、少なすぎるでしょ。


もっとも、これが少なすぎるからということで今まさに異次元の少子化対策が検討されてるところですから、その内容も踏まえないとフェアではありませんね。

確定値ではないようですけれど、対策後の制度の見通しがこちら。

"こども金庫"と異次元の少子化対策 -NHK


わーい、ありがとう!
……って、ほとんど増えてないやないかーい!!😫

おっと、つい素でツッコミを入れてしまいました。

いや、第3子こそ3万円に増えてはいますが、そもそも第3子に至るまでに、第1子、第2子を通過しないといけないわけですから、ほぼほぼ据え置きと言えるでししょう。しかも、当初第3子以降は6万円とか言っていたのが尻すぼみになってのこの着地なので、今後一転さらに増額という展開も期待薄です。

もちろん、1万円だって3万円だって大金です。「それがもらえるだけありがたいだろ」と考える方もいるでしょう。それは確かに一理あります。もらえるものに感謝もせず「少なすぎる」と文句を言うのはあまり行儀が良い仕草とは言えないでしょう。

ただ、今は「子育て給付より休みが欲しい」という声の真意を紐解いている作業中であることを忘れてはいけません。この「給付」が「休み」と果たして対等に張り合えるものなのかが問われているのです。ひとまず行儀が良い悪いは置いておきましょう。


さて、これも以前のパパママデート問題の記事で書いたことですが、パパとママが2人きりでデートをしようという「自由時間」っぽいプランを立てたとして、それに必要となるベビーシッター代が15000円(3時間相当)ほどします。いきなりひと月の児童手当分の額が消滅する計算です。つまり月に一度3時間の自由時間と交換に児童手当はたちまち消失するわけですね。

もちろん、複数人の子どもを同時に見てもらうとか、もう少し格安のサービスを探すなどすれば、必ずしも一撃で児童手当分が沈むことはないかもしれませんが、普段育児しているだけでも食費・服飾費・保育料などと、子どもはお金が大変かかるものですから、ひと月3時間程度の自由時間でグラつかれてるようではやはり児童手当は十分な額とは言い難いでしょう。

そもそも子どもがいなければ、何らそこには余分なお金がかかることなく自由に使える時間があるわけですから、「この程度の子育て給付と引き換えに大半の自由時間を失うなら子どもを諦めるか」と考える人がいてもおかしくはありません。

そう、つまり「子育て給付より休みが欲しい」ひいては「お金よりも自由時間が欲しい」という声の真意は実のところこういうものではないでしょうか。

「政府から支給されるのがこんな端金でしかないなら独身やDINKS(無子夫婦)である自由の方が良い」

と。

先ほども言った通り、本来潤沢なお金があれば育児世帯においても自由時間は得られないわけではありません。ところが育児に対して支援される額が雀の涙でしかない。それゆえ、育児に臨んだ途端、お金が切迫し、ひいては自由時間も失われてしまうのです。

ですから、「お金よりも自由時間」の声で指されている「お金」とは、別に「潤沢な大金」のことではなく、児童手当に象徴されるような「しょっぱい少額すぎる子育て給付金」のことを指してると考えるとしっくりきます。
ここの支援金の大小についての分解能がなかったところが、冒頭の解説の解釈で不足していた視点であり、違和感の源であったと考えられます。

経済的支援がしょぼすぎるのに、それで失う自由時間が大きすぎること。これに伴う「育児へのためらい」もっと言うと「育児忌避」の気持ち。それが表れているのがこれらの「お金より自由」の声なのです。

先にも述べた通り、「お金で自由を得る」という意識が浸透している昨今ですから、お金や自由に対して人々はみな敏感で目が肥えています。
そんな中でどうしたって強力な不自由性を伴う育児というエッセンシャルワークにあまりにも非力な支援額しか示されないのであれば、失望されるのは当然です。


もちろん、こういう話をすると育児についてお金や時間の計算ばかりしているようで、快く思わない方も数多くいらっしゃるでしょう。育児とは素晴らしい崇高な経験であり、そのような銭勘定でするものではないと。

それはほんとおっしゃる通りと思います。

むしろ、おっしゃる通り「育児は銭勘定でするものではない」からこそ、今でも子どもが生まれ育てられ続けているのです。「銭勘定」目線ではどう考えても割に合わないしょっぱい子育て給付と育児の大変さ不自由さにもかかわらず、多くの方が今なお出産と育児を担う人生を選んでいます。

これはまさしく人々が育児そのものに価値を見出しており、別にお金の計算ばかりして生きているわけではないことの証拠と言えます。

ところが、ご存知の通り少子化は今や社会の大問題となっています。
これはその銭勘定によらない「育児そのものの価値」が劣勢になってきていることを表しています。

こう言うと「ほれみたことか、崇高なる育児よりもお金のけちくさい勘定ばかりしおって育児世代はけしからん」と当事者の育児世代にお怒りになられる方もいらっしゃるかもしれません。
確かに、当事者たちにその責任を問う立場もありえないわけではありません。

ですが、江草は逆にこう問うこともできると思うのです。

「そんなに育児が素晴らしい崇高なことであるなら、なぜ社会はケチくさい銭勘定ばかりして育児支援にわずかしかお金を出さないのですか?」

と。

育児世代自身の価値観の問題は確かにあるかもしれません。ただ、育児世代というものが独立して存在しているわけではなく、社会と相互作用でその価値観は育まれているはずです。つまり、社会が育児世代の価値観を見つめている時、育児世代もまた社会の価値観を見つめているのです。

社会が育児に対してどういう態度を取っているかを、育児世代はつぶさに観察しています。

たとえば、「異次元の少子化対策だ!」と声高に叫んでいたにも関わらず、結局、児童手当が月3時間の自由時間相当にしかならないまま。

これ、どう受け止められると思いますか?

「ああ、この社会では結局お金の方が大事で、育児は大事に思われてないんだな」となりませんか?

そしてこういう時にこそ、そんな社会の態度にならって子育て世代もまた「銭勘定」を始めてしまうのです。

「この程度ならそんなしょっぱいお金よりも自由時間が欲しいな」と。

だから、子育て世代の銭勘定的価値観をけしからんと叱るならば、社会そのものがその「けしからん銭勘定的価値観」に染まってないか振り返ってみる必要があるでしょう。

社会が「育児には崇高な価値があるのだからケチくさい銭勘定などしてはいけない」と真に考えているならば、その価値観を当事者の子育て世代だけに押し付けるのではなく、お金に糸目をつけずに潤沢に経済的支援を行うはずです。

そうでないなら「そんな端金より自由時間が欲しい」と言われても仕方がないでしょう。


というわけで、長々と語ってきましたけれど、要するにもはや育児世代が欲しい物は「お金か時間か」などと言ってる場合ではありません。真に社会が育児を重要な活動であると考えているならば、そのどちらも十分に提供するしかありません。そもそもそれらは今や不可分なのですし。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。