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反権威主義者のジレンマ

権威によるトップダウン的なやり方に反発する反権威主義。一部の偉い人が勝手に物事を決めるのを嫌うという意味で、平等主義でもありますし、民主主義とも親和性が高い思想的立場です。

江草もわりかしヒエラルキー構造や上位下達が嫌いなのもあって、この反権威主義寄りな立場である自覚はあります。ただ、この反権威主義には大きなジレンマがあるんですよね。

それは「反権威主義を謳う以上は自身も権威になってはならない」という思想的制約です。現状の権威を批判して打倒しようとするのは反権威主義だから自然な話なのですが、それがいつの間にか自身が権威に成り代わってしまうと、それは立場として矛盾に陥ってしまうというわけです。

たとえば、かのフランス革命も、絶対王政時代の「王権」という権威を打倒して、民衆による平等な社会を目指そうというのが謳い文句だったわけですが、結局はその王権を転覆し生まれた革命政府がロベスピエールによる独裁体制に至ってしまったという悲しい顛末があります。ただ権威の首をすげ替えただけで、権威主義の構造自体を崩せず、なんなら自身が積極的にその権威に居座ってしまうなら、それは反権威主義とは呼べないわけです。

つまり、ある反権威主義者がサクッと社会を変えられるような強大な影響力を持ってしまうと、それは自分自身が新たな権威になってしまってるだけのことであって、反権威主義の理想が実現した状態ではないんですよね。同様に、民主主義的な平等志向の視点においても、自分の意見にみんなが同調するようなカリスマ的インフルエンサーになってしまうと、他の人々よりも強い立場を持ってしまっており民主主義的でも平等的でもなくなってしまうということになります。

急激な改革(革命)を成し遂げようとすると、それなりに影響力を持つ必要がありますし、どうしたって目立つという点で、権威化から逃れられなくなってしまうのです。

もちろん、反権威主義者も最終的には世の中の権威の力を削いでいきたいと考えているわけですから、社会に影響したいと考えてることには違いありません。しかし、その影響の仕方が権威的な立ち振る舞いであってはならないということになります。

では、権威的な立ち振る舞いを避けるためにはどういう条件が必要でしょう。

まず、その人に偉そうに振る舞わない謙虚さが求められるのは当然ですね。

しかし、本人がいかに謙虚でも周りから権威として崇め奉られたら困るわけですから、パッと見で全然権威でもインフルエンサーでもないことが必要なわけです。めっちゃ影響力とかなさそうな地味な人であるべきなんですね。

そんな権威でもインフルエンサーでもない人間がそれでも社会に影響を与えようとするならば、それはほんと大河に絵の具を一滴ずつ垂らして色を変えようとするような、そんな地道でゆっくり作業にならざるを得ません。

つまり、いきなりすぐに大きく社会を変えようとすることは、反権威主義においてはその思想的立場ゆえに目指してはいけないということになります。

理想を言えば、自身の死後、なんなら何世代も後に、ようやく時代が追いついてくるようなそんな影響の果たし方が反権威主義らしいと言えます。
たとえばキリストとかブッダとかは自身の死後、百年、千年単位の時間をじっくりかけて結果、世界に絶大な影響を与えた人物と言えるでしょう。もっとも、彼らも結局はある意味権威的に崇められているわけですが、名のある人物でないと例示しようがないのでこの場は許してください。
だから本当は、「歴史上、全く名が残ってないけれど実はこの人が最初に権威を打ち破る第一歩を進めた」みたいなアンサングヒーローが反権威主義者の究極的な理想の人物なんですね。

これゆえに、反権威主義は刹那主義、個人主義、現役主義と実は相性が悪いんですね。今を良くしたいとか、自分が生きてる間に何とかなってほしいとか、そういう急ぎ足で社会を変えたいという試みには繋がりにくいわけです。

「将来に良い社会をバトンタッチしたい」という、将来に託す気持ちを伴う長期目線が反権威主義的立場を固持するには必要になります。

反権威主義者は当然ながら権威が嫌いで、権威がデカい顔をしている現在の社会が嫌いだからこそ反権威主義を進めようとするわけですが、その理想を矛盾なく進めるためには、自分自身はこの大嫌いな権威主義の社会の中で生涯を過ごすことになることを受け入れる必要がある。これが反権威主義者にとって大きなジレンマになるわけです。

このつらさに耐えかねて、一か八かと急進的に革命を起こそうとして、結果、自身が権威化あるいはインフルエンサーとなってしまう(あるいはそれを目指してしまう)。そういうケースが反権威主義者にとっての一つの落とし穴ルートになるんですね。


まあ困った話なんですが、ジレンマというのは困った話だからこそジレンマなわけで、とりあえず困っておくしかないなあと思う次第です。

「世の中を変えたいとは思うけれど自分が偉くなって影響力を持とうとするのはなんかちげえんだよなあ」と思う人もそこそこ居るとは思うので、今回の整理が何かしらの参考になったら幸いです。


P.S.

とはいえ、一応、補足しておくと、「絶対に反権威主義者が権威化してはいけない」と必ずしも断定できるものではないと考えることはできます。たとえば「反権威の理想を成し遂げるための途中経過の暫定的措置としてあえて自身が一時的に権威化してるのだ」だとか。

「自由と平等を謳う自由民主主義社会を脅かすテロ行為を未然に防ぐために容疑者を拷問することは倫理的に許されるか」とか「地球温暖化防止の世界会議に出席するために各メンバーが温室効果ガスを多量に排出する航空機に乗って集うのは許されるか」などの例で知られる、倫理学におけるいわゆる「ダーティーハンド問題」の議論に繋がる話になります。

「大きな善を果たすために小さな悪を犯すのはやむを得ない時がある」という感じですね。

これはこれで説得力がある立場となります。

なのですが、往々にして「緊急のためやむを得ない一時的対応だ」と言ってたものは永続的になりがちなので、「一時的な権威化だよ」が本当に反権威主義の理想実現に至るどうかは実践上はやっぱり問題になるかなあと思います。

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