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『敵とのコラボレーション』読んだよ

アダム・カヘン『敵とのコラボレーション』読みました。

Kindle月間セールの対象として紹介されてたのを見て、面白そうだなと手に取った一品。

存じ上げなかったのですが、著者は「伝説のファシリテーター」ともされる方で、南アフリカのアパルトヘイト後の民主化や、南米の薬物蔓延防止プロジェクトなどグローバルに大きな仕事をされてるすごい方のようです。

で、本書のテーマはタイトル通り「敵とのコラボレーション」です。主義主張が合わない人、態度が気に入らない奴ら、利害関係が一致しない組織、暴力的すぎてそもそも存在からして受け入れ難い集団などなど、社会にはどうしても気が合わない人たちが居るものです。そんな人たちと一緒にやっていくなんてゴメンだ、気の合う仲間たちと協力して問題を解決したいと、誰もが思うでしょう。

ところが、著者は社会が複雑化してる現状では、そうした「気の合う人たちとだけ協力してなんとかしよう」というやり方では問題解決には繋がらないと指摘します。不本意であっても私たちはそうした「気の合わない奴ら」いわば「敵」ともコラボレーション(協働)しなくては社会の問題を解決の方向に導くことはできないのだと。

もっとも、今までも利害が一致しない集団の代表者たちが集い、対話をして、問題解決につながるような合意(落とし所)を見出そうという試みはされてはいました。個々の細かい利害は一旦忘れて、社会全体のためにできることを一緒にやろうというわけです。

しかし、そうした対話と共通合意を前提とした従来型コラボレーションのやり方は、実際にはうまく機能しないとして、著者は否定してしまいます。


医師の江草としては大変面白いことに、著者は病院内での組織改革のケースを例に出して、このやり方のありがちな落とし穴を示しています。

ちょっと長いですが、この本のテーゼを知るわかりやすい箇所と思うので引用してみます。

 スーザン・ジョーンズは大病院のCEOだ。この病院は社会的・経済的・技術的環境のめまぐるしい変化に直面しており、臨床面でも財政面でも一貫してろくな結果を出していない。彼女は病院運営を一変させる総合的なプロジェクトを役員会に認めさせる。病院スタッフの現状にさまざまな変化を起こすためのこの改革には、医師、看護師、研究員、技師、管理者と多くのプロフェッショナルが必要だ。したがって、この取り組みを一方的に命令したり、押しつけたりすることはできないと彼女は承知している。そこで、このプロジェクトは協働しながら取り組んでいこうと決意する。  
 ジョーンズは、全部署から病院の経営幹部クラスのマネジャー二五人を集め、改革チームを立ち上げる。そしてメンバーがチームとしてまとまり、改革に向けた計画に合意できるように病院外でワークショップを開催する。専門コンサルタントも雇い、病院の問題の診断と解決策の処方を依頼し、報告書をワークショップに提出させる。彼女はワークショップの論点を患者にとって、病院全体にとって何がベストかという点に絞り、マネジャーたちに部署内の狭い議題は脇に置いてくれと強く要求する。
 ワークショップの最後に、チームはコンサルタントたちが提言した解決策を実行するための計画について合意に達する。計画には、改革を果たすために各部署が遂行しなければならないこと、また計画が期限内かつ予算内で確実に実行されるようにするための報奨と制裁も明記されている。ジョーンズもチームも、この重要で込み入った仕事を成し遂げられて喜んだ。
 ジョーンズは病院の全スタッフにメールを送り、改革の開始を発表する。しかし、スタッフのほとんどは、このメールに冷笑と警戒で反応する。こんな改革がうまくいくのかと疑い、自分のプロとしての基準を曲げなければならないのかと心配し、仕事がつまらない、不安定なものになるのではないかと恐れているのだ。スタッフは非難の矛先をジョーンズ、上司、コンサルタント、他部署の人間に向ける。公衆衛生局の役人や患者も新聞やソーシャルメディアで懸念の声をあげる。
 マネジャーたちが計画を実行しはじめると、予想外の厄介な問題、遅延、抵抗、予算超過にぶつかる。マネジャーたちが強く計画を推し進めれば進めるほど、取り組みは行き詰まる。臨床面と財政面の結果もさらに悪化する。ついに、役員会が改革プロジェクトは失敗したと宣言し、プロジェクトを中止する。院内は非難合戦に陥る。

アダム・カヘン; 小田理一郎. 敵とのコラボレーション――賛同できない人、好きではない人、信頼できない人と協働する方法 (pp.60-62). 英治出版株式会社. Kindle 版.


なんというか、本当に「あるある」な話で苦笑せざるをえませんでした。

組織幹部の話し合いで決まった改革の御触れに対して、現場スタッフたちが「まーた、変なこと言い出した」と冷ややかな反応をするところなんてほんと何度見たことかという感じですよね。

組織内で改革のモチベーションが上がってないから当然改革はうまくいかず、結局改革自体がうやむやになったり、改革を実行している幹部としても意地があるので建前上はうまく行ってるように見せかけたり。

あるいは、改革の失敗が明らかになると、互いに「あいつが悪い」とか「非協力的なあの部署のせいだ」とか余計に相互批判と不信感が高まる結末を迎えてしまうという悲劇です。

でも、形式上はこれこそがみんなが一般的に考えてる「コラボレーション」なんですよね。部署の代表者が集まって話し合って、個々の立場を一旦脇に置いて、統一見解に合意し、改革の共同プランを出すというやり方です。

しかし、この架空の病院のケースが示すように、そして現実の数多の失敗例が示すように、案外こういう「従来型コラボレーション」はうまくいかないんですよね。著者自身も、さまざまなコラボレーションでの失敗を経験する中で「これはやり方を変えないといけないな」と気づいたのだそうです。

著者は、こうした「従来型コラボレーション」の問題点として、全体の利益に着目し過ぎていること、いきなり問題に関する確立された統一見解や解決策を策定しようとしていること、上位のものが下位のものに価値観や行動の変容を迫るトップダウン的な発想に基づいていること、を挙げています。

考え方や立場が異なる集団や人が入り乱れている複雑な問題において、そうした従来型コミュニケーションは単純かつ性急すぎて機能しないというわけですね。

トップダウン的に勝手に決まる上に、硬直的かつ短絡的すぎる制度設計であるために、現場医師総員から冷ややかな目線が注がれてる我らが新専門医制度なんて、まさに本書が指摘する失敗ポイントを全て見事に踏み抜いているなと思います。


それで、著者は意見が合わない人たちとも協働するための方法論として、「従来型コラボレーション」の発想をより柔軟に拡張した「ストレッチコラボレーション」を提唱します。

この「ストレッチコラボレーションとは何か」が、本書の醍醐味と言える部分なので、ここでちゃんと説明することは難しいのですが(ぜひ本文を当たっていただきたい)、めっちゃざっくり江草解釈で言ってしまうと。

「全体の利益」に固執するのではなく、各個の目線ではそれぞれ固有の「全体」存在しており、それらのいわば「部分的な全体」が入れ子状に重なり合って、それで「全体」が出来上がってることを意識すること。

唯一の正解があるという発想を捨てて問題認識も解決策も試行しながら模索していくという意識に変えること。

「我々が正しい道を啓発する」というようなトップダウン的な意識ではなく、自分も他者(なんなら敵)から変化させられることに身を投じる覚悟をすること。

これらが「ストレッチコラボレーション」の肝となるビジョンです。

要するに、ボトムアップの余地をたっぷり残し、正解が決まらない曖昧な状態に耐えることを学び(著者は流れに身を任せる「ラフティング」に例えてました)、自分と相手が互いに影響を与え合って創発的に物事が動くという感覚を持とうと。

「従来型コラボレーション」に比べると、なんともあやふやでぼんやりしてる感じがしてしまうかもしれませんが、そうした柔軟性が大事なんだというわけですね。

一見何も変わらなそうに見えてこの方が問題解決が案外進むのだと、著者はさまざまな事例経験を提示しながら説明されています。

それぞれが自分の主張をきっちり掲げる「力」の側面と、それでも互いのつながりは維持しようという「愛」の側面と、「愛と力」の両方をバランスよく持ち続けることが問題解決の方向に進んでいくのだというのが著者のスタンスです。

今までの「従来型コラボレーション」では一緒に同じ目標に向けて協力しようとする「愛」の側面が強調されすぎていた。協力するために相互批判は一旦抑えておきましょうと。でもそれはそれで、窮屈で頑なで性急でありすぎたために、結局は機能しなかった。

とはいえ「力」だけでは、結末は流血の戦争です。だからこそ「愛」の要素を「従来型コラボレーション」は強く求めていたところがあります。

なので結局、「力」と「愛」の両極の要素をともに抱き続けることが大事なのだというわけですね。

必ずしも共通の問題意識や解決策に合意する必要がないという、一見常識に反する結論は、コラボレーションにおいて「愛」だけでなく「力」の価値も認めようという、経験豊富な著者ならでは慧眼と言えるでしょう。


で、ここからは本書の内容を踏まえた江草の雑感ですが。

やっぱり、この「ストレッチコラボレーション」の思想を鑑みても、社会におけるアサーティブコミュニケーションの重要性の認識が高まってきているなあと感じます。

アサーティブコミュニケーションというのは、最近ちょくちょく提唱されるようになってきてる、過度に批判的・攻撃的にならず、過度に防衛的・萎縮的にならないようにするコミュニケーションのスタンスのことです。自分の意見や反論はちゃんと言うけれど、別に相手を論破しようとせず寛容な傾聴の姿勢をも保つ、そんなコミュニケーションです。

まさに「ストレッチコラボレーション」がやろうとしてることにも近いなと思うんですよね。(「ストレッチ」では対話以外の要素の重要性も強調しているので同義ではないですが)

過度に批判することで喧嘩になって分断したり、過度に批判を悪者にすることで結局は全員が内心に不満をただ抱え込むようになったり、特にSNS時代で明るみになったそうした社会の失敗を反省して、その反動で言われ始めてるのかなと。


で、最近ちょっと思うのは、人間社会とは人同士のネットワーク構造で出来てるんだなということです。

「力」が突っぱねる動き、「愛」が惹きつける動きとする、いわば人というnode結節点同士の斥力と引力の満ち引きで社会のネットワーク構造の振動が生まれているようなイメージです。

node同士が惹かれあって繋がりが強固になることもあれば、突っぱねあって疎遠になってぶっつり繋がりが切れたりもする。

あるいは、互いに「愛」が強いnode集団がネットワークのここかしこでダマになってるかと思えば、時に「力」でその集団から飛び出すnodeも居る。

node同士の繋がりで相互に影響を与え合って、それぞれのnodeが日々変化する。どこかのnodeが変化すれば、それがまた次に繋がってるnodeに影響を与える。そうしたnodeの変化がネットワーク構造の変化を生み、ネットワーク構造の変化がまたnodeの変化をもたらす。

まさにカオスな複雑系です。こんな複雑怪奇なものをトップダウン的に硬直的なシンプルな「正解」で統制しようというのが無理があるのでしょう。そして自分だけが影響を受けないでいようとすることも。

かといって、完全にnode同士がバラバラであるわけでもなく、あくまで繋がってることがネットワークのネットワークたる所以なわけです。カオスだけれど、バラバラではない、何かしらで繋がっている。

だから、人的ネットワークすなわち社会が敗北する時(あるいは死ぬ時)、というのはネットワーク構造やその動的変化が保てなくなった時なのだと思います。

斥力が強くなりすぎて内部集団同士の繋がりが断たれネットワーク構造が分割されてしまう時。あるいは引力が強すぎてnodeやネットワークの変化の振動が制限されて、ただの均一で動かない静止した塊となってしまう時。

現実、自由主義と社会主義はそれぞれその両極の失敗に導かれがちであったわけです。

そうならないように人的ネットワーク構造のバランス、すなわち人間同士の斥力と引力のバランスを保とうとすれば、自然とnodeとネットワークの潜在能力を引き出して問題解決につながるネットワーク変化をもたらすであろうというのが、ストレッチコラボレーションやアサーティブコミュニケーションなどの取り組みで、いわばネットワーク社会の自然な治癒力、進化に期待している発想と言えます。

ある意味、問題解決を放り投げてるような、そして「自然治癒力」とスピリチュアルにさえもとらえられかねない発想ですが、「社会が人間ネットワークである」という本質を見据えた、なかなか適切なやり方のように感じられます。

もっとも、この「力」と「愛」を共に保つというのが、言うは易し、行うが難しの典型のようなものでして、私たちは嫌な奴らとつながるのはやっぱり嫌で、意見の合う仲間たちとばかりつるみたくなるものです。そして、仲間内の和を乱したくないからと、自分の意見を押し殺したりもします。それでやっぱり知らず知らずのうちに社会の何かがおかしくなっていく。

いやー、人間て本当に難しいですね。


というわけで、本書『敵とのコラボレーション』は現代社会において示唆深い話がふんだんに含まれてた良書だったと思います。オススメです。

本書では、ストレッチコラボレーションの意義が学べるだけでなく、親切なことに個々人で「力」と「愛」のバランスを保つ訓練のためのガイドも付録でついていますから、それを見ながら練習するのも良さそうですね。

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