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「批判」という名の「悪魔」も要る

昨日の話の補足。

クリエイターは往々にして孤独な心情に置かれやすいので、良いと思ったら素直に明確に「良い」と伝えてくれる受け手は、神のごとき救済者になるのだという話でした。

これはこれで十分に完成してる「いい話」であったと思うのですが、天邪鬼な江草はせっかくの「いい話」をわざわざややこしくする説明をしたくなってきちゃったのです。

というのも、「良い」と言ってくれる人が大事なんだよ、と、「褒める人」ばかりを持ち上げることには罠があるからです。

この罠について触れずに話を仕舞ってしまうのは個人的信条として落ち着きが悪い。

なので、今日は「神」の裏の存在たる「悪魔」の意義について語ってみようと思います。

その「悪魔」とは、すなわち「批判」です。



さて、昨日の記事で褒めることの大切さを語ったものの、「推し」という言葉が流行語を超えて一般用語にすらなりつつある昨今ですから、実のところ誰かを褒める行為そのものは広く行われてるところがあります。

その一方で毛嫌いされてるのが「批判」です。

クリエイターは褒められると天にも昇る気持ちになりますが、逆に批判を受けると気分が落ち込んでムシャクシャして絶望的な気持ちになるものです。

こういう江草自身、批判されるのは苦手ですし、良い気分がしないのは正直なところです。褒められっぱなしであるのが気分的にはずっといい。

そのため、「批判すること」は相手を傷つける良くないことであるとして、昨今の「優しいgentle」世の中では避けられるようになってきました。何かを批判したくなったとしてもわざわざそれを言葉にせず、良いと思ったものを推す方に精を出すのがいいじゃないか、と。

つまり、「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!」という漫画のセリフ(なお『ワンピース』のルフィのセリフと広く誤解されてます)がネットミーム化しているのが象徴的ですが、批判をするのは野蛮な行為であり、推すのが上品な行為である、そうした位置関係が社会の中で成立しているところがあるのです。

もっとも、ちょいとSNSを開いてみれば罵詈雑言とも似付かぬ批判の応酬が目に飛び込んでくる惨状からも分かる通り、「批判」は実際には「推し」以上に社会で広く行われています。ただ、その実「批判」というよりも「誹謗中傷」と言うべきレベルの低品質のものが溢れかえってることもあり、もはや「批判」に野蛮な行為という印象がついていることは否定できないところでしょう。

そのため、もう人々は「批判」に辟易して、ただ「推したい」し「推されたい」、そう願うようになってきています。

確かにこの方がお互い気分も良いし快適だしモチベーションも湧くしと一見良いことづくめです。特に、自信を無くして孤独に震えてるクリエイターにとって「推されること」はまさしく救いとも言えるほどの絶大なポジティブエネルギーをもたらすものであることは昨日も強調した通りです。

ところが、「批判なき推し」は絶大なポジティブエネルギーをもたらすものではあれど、だからこそ大きな死角があるのです。

それはブレーキや軌道修正(ハンドル)が効かないことです。

「推し」はエンジンをぶん回すアクセル(あるいは燃料)でしかありません。ハンドルやブレーキがなくって、アクセルしかない車がいかに危険かは皆様も想像が付きますでしょう?

そう、暴走するんです。

確かに、元気なく動きを止めようとしてる車に、ガソリンを補充してあげてアクセルをふかす補助をしてあげるのはとても大事なことです。

ところが、猛スピードで暴走してる車に対して私たちが採れる手段が燃料を補給することやアクセルを踏むことしかないとすれば、それは考えるだに恐ろしい話です。

でも、批判を毛嫌いして、推すことばかりを持ち上げる社会というのは、詰まるところ、こういうことになりかねないんです。

褒められて推されたら、人はその方向に突き進みます。けれど、加速してどんどん距離を稼いでくればくるほど、本来目指すべき方向との誤差が見えてくるものです。だから、その方向の誤りを修正してくれるハンドルであり、速すぎるスピードを抑えてくれるブレーキである「批判」が不可欠なのです。

しかし、ここで「なんか野蛮だから」と「批判」を捨ててしまったら。

「批判なき推し」しか世の中に存在しなくなれば、「推し」と「推され」だけで構成される熱狂的空間(エコーチェンバー)の暴走を止めるものは誰もいなくなります。

この暴走がいかに悲劇的な顛末を遂げるかは、かの大戦時の全体主義の暴走の歴史によって、誰もが痛感したところでありましょう。


もっとも、こうした社会的な「推し」優勢文化への反発なのか、少しずつ「批判」の重要性は見直されてきているところがあります。

たとえば、ビジネス界でも「心理的安全性」や「クリティカル・シンキング批判的思考」の大切さが説かれるようになってきました。

「心理的安全性」と言うと、「推し」「推され」ばかりの仲良しこよしな関係をイメージされがちなのですが、これは典型的誤解で、むしろ「お互いに批判を言い合える関係」という意味での「心理的安全性」を指しています。

誰かが批判をしたからといって「アイツは気に食わないから村八分にしてやろう」とか「批判なんてグループの和を乱す野蛮な行為だからダメだ」などと排除しようとすることがないと「安心できる」。

こうした「心理的安全な」組織文化の構築を目指してまで「批判」を積極的に引き出そうとしていることからして、「批判」がいかに重要な存在であると考えられているかが分かるかと思います。


さらに古くを見れば、こうした事例には事欠きません。

たとえば「悪魔の代弁者Devil's Advocate」。

かつてカトリック教会では、聖人の認定を議論する時に、あえて聖人候補を批判する役回りを担当する立場の人を置いていたんだそうです。その名称がこの「悪魔の代弁者」です。批判が存在しない危険性を認識していたからこそのシステムでしょう。現在でも「議論の時にあえて批判をする人」という意味で用いられています。


また、古き名作映画である『十二人の怒れる男』も批判の大切さが主題の作品です。

他の陪審員が全員、被告の有罪で片付けようとしていた時に、1人の陪審員が有罪の論拠に「待った」をかけて、拙速な有罪評決を止めるストーリーです。まんま上述の「悪魔の代弁者」と言える構図で分かる通り、主人公が孤立を恐れず勇気を持って批判的意見を掲げなければどうなっていたかを想像させることで、批判の重要性を鑑賞者に訴えかける作品となっています。


そんなわけで、「批判」というのは、やっぱり食らった方は気分を害しやすいし、する方も気を使うしで忌避されがちではあるものの、決して無くしてしまってはマズい、世の中で重要な役割を果たしている行為なんですね。

昨日、「褒める人」を「神」として、「褒めること」や「推すこと」にばかり偏って称揚してしまったので、今日はバランスを取って、まさしく「神」と対を成す「悪魔(あるいはその代弁者)」と言うべき「批判すること」の大切さを語ってみました。

褒めたり、推したりだけではダメなんですね。


とはいえ、孤独に活動をしているクリエイターに批判が届いたら、ただでさえ自分の心の中の「悪魔」と格闘するのも苦戦していたのに、さらに外部の「悪魔の代弁者」からの批判が追い討ちとなって、ぷっつりと心が折れてしまうかもしれません。こうなってしまうと、昨日の主旨とも反する悲しい事態となってしまいます。

このように、困ったことに「推し」と「批判」のバランス調整は本質的な難しさを抱えているところがあります。

このバランスをどうしたらいいか。

当然ながらこれに絶対的正解はないのですが、江草個人的に採ってるスタンスを紹介しておきます。

大まかに「推し」がアクセルで「批判」がブレーキだとするならば、勢いが弱い方には「推し」を、勢いが強い方には「批判」を与えるのがバランスが取れてると思うんですね。

つまり、あんまり売れてないとか評判が高まってないけれど結構良いもの出してるじゃんという方には積極的に「推し」をして、めっちゃ売れてて世の中的にも評価が高いけれど多くの人が見過ごしてる欠点や盲点を抱えてる方には積極的に「批判」をしていく、こういうスタンスが良いんじゃないかと。

一言で言えば「弱きを助け、強きを挫く」となりましょうか。

もちろん、昨日も言った通り、お世辞を言って無理に推すみたいな不誠実なことはしないです。逆に「売れててムカつくから適当に難癖をつけたろ」みたいなのも無し。あくまで、「弱いけど良いもの」、「強いけど悪いもの」を対象とする、そういうイメージです。

あと、自分も良いと思ってても既に人々から称賛の声が集まってるものはわざわざ積極的に推しにいかないですし、自分も悪いと思ってても既に人々から批判の声が集まってるものはわざわざ積極的に批判しにいきません。既に人々が多く同意見を放っている時に江草が改めて参加しても、その追加した「推し」や「批判」の限界効用が低いと思うのと、無自覚に暴走に加担してしまうのではないかという恐れがあるので。

まあ、つまりは冒頭でも言った通り江草は天邪鬼なんですね。

我ながらめんどくさい性格だなあと思うのですが、なかなかこればかりは変えられないので仕方がありません。自己性格批判が足りんぞーと批判されたらそれまでなのですが。


というわけで、以上、今回は「批判」という「悪魔」についてのお話でした。

上記のスタンスもまあ言うて完璧にできてるわけではないのですが、大まかにはこういうポリシーでやってますというご紹介です。

なので今後も江草は「みんなで他薦していきましょう!」と言いながら、その傍で各方面にバシバシ批判的論考ふっかけ続けると思うので、そこんところご容赦いただけたら幸いです。

しかし、そういう意味では、昨日のように、江草を推してくれてる記事ばかり紹介するのも誠実さには欠けるのかもしれませんね。江草を批判してる記事も紹介しないとフェアじゃないと言われればそう。

たとえば、江草が批判されてる記事で以前見かけたものとしてはこちら。

正直「うぬぬ」と思いつつも、「なるほどこういう風に批判されるのかああ」という意味で学びがあった批判でした。批判してくださる方がいるというのは、ありがたいことです。


……あ、大事なことを書き忘れてたのに最後に気づいたので、追伸的に書きます。(どこにこの話を挿入したらいいか思いつかず)

「批判」が社会の暴走を止めるのに不可欠だからこそ、「批判」の丁寧さと誠実さが大事なんだと思ってます。

つまり、SNSで見られるような野蛮な罵り合いでしかない「批判」の応酬は、世の「批判嫌い」を助長するという意味で、とてもよろしくありません。

上手くできてるかは分かりませんが、江草自身は、批判を行うときはできる限り丁寧に誠実にやりたいなと思ってはおります。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。