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『未婚と少子化 この国で子どもを産みにくい理由』読んだよ

筒井淳也『未婚と少子化 この国で子どもを産みにくい理由』読みました。

少子化問題について解説された新書ですね。

少子化問題には江草も強い関心を持っているので、ちょこちょこ関連書籍を読んでいます。日本の書籍で言うと山田昌弘『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』を以前読んで感想を記しています。


読んだきっかけ

で、今回の筒井氏の『未婚と少子化』を読もうと思ったのは、異次元の少子化対策についても触れられている近著であることと、本書概要の紹介文で

たとえば「少子化対策=子育て支援」とだけ考え、手前の「未婚・晩婚問題」が改善されない現状は、誤解が招いた過ちの最たる例だ。

とあって、「子育て支援」と「未婚対策」の議論について学びがあるかなと思ったからでした。

この「未婚化対策」か「少子化対策(子育て支援)」かという話は先の山田氏の『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』でも登場していて、江草がかねてから気になってた論点なんですね。

↑の記事で長々と論じてる通り、江草的には(少なくとも本邦では)「子育て支援」と「未婚化対策」はコインの裏表みたいに一体化したものという認識なので、「子育て支援よりも未婚化対策に注力すべきだ!」という主張には懐疑的です。

なのですが、少子化問題系の専門家や有識者の方々は山田氏に限らずほとんどの方が定説と言わんばかりに「子育て支援よりも未婚化対策を!」と述べてらっしゃるので、なにか江草が大きな勘違いをしているのかなあとずっと喉に小骨が刺さってる感覚だったんです。

江草の私淑するバートランド・ラッセルも『懐疑論』でこう言ってますしね。

私が唱える懐疑主義は、以下のものであるにすぎない。すなわち、(一) 専門家の意見が一致している場合は、これと反対な意見は、確実だとみなすわけにはいかない。(二)専門家の意見が一致しない場合は、専門家でないものは、どの意見も確実とすることはできない。(三)専門家がこぞって、あるはっきりした意見には十分な根拠がないと主張する場合は、普通の人は、自分の判断をさし控えた方がいい、ということである。

バートランド・ラッセル『懐疑論』

そんな折見かけた今回の筒井氏の『未婚と少子化』こそはまさにその疑問に答えてくれる納得の行く説明が得られるのかなと期待したわけです。


未婚化対策が優先とする論拠は納得に至らず

ただ、読んだ感想を率直に言うと、残念ながら江草の疑問にこの本も答えられるものではありませんでした。

本書の謳い文句でもあり主力のテーマっぽかった割には、「子育て支援よりも未婚化対策が必要(優先)」という主張の論拠は、山田氏ら他の少子化問題論者とあまり変わりなく、すでに耳学問ジャンキーの江草的にはさほど新鮮味がなかったというのが正直なところです。

江草の反論はほぼ先ほど挙げた過去記事の繰り返しになりますから本稿であんまりまた詳述はしたくはないんですが、話の流れ上触れないわけにもいかないでしょうから、改めて説明しますね。

本書での「子育て支援よりも未婚化対策が重要である」とする主張の論理的基礎は「すでに結婚して子供を持ってる家庭を支援しても意味がない」です。この立場は他の方でもよく見かけます。

さて、以上のような出生率の変化のみを見ているだけでは見えてこない事実もある。それは、 1970年代からの出生率低下の大きな部分は、結婚している人が子どもをもたなくなったことではなく、晩婚化・未婚化によってもたらされてきた、ということである。
 このことは強調してもしすぎることはない。少子化に絡んでメディアの取材を受けたり、行政関係者と話をしたりしているときに感じるのが、出生率や出生数について考えるとき、どうも「結婚している夫婦」が出発点として想定されてしまっているのではないか、ということだ。だからこそ、少子化の課題といえばすぐに子育て支援の話になるし、政府の少子化対策についてメディアが報道する場合も、ほとんどは子育て中の夫婦(特に母親)の意見を集めようとする。中には、子どもが 3人いて大変だ、という母親のところに取材に行くようなケースもある。
 これは「子育ての大変さを和らげる」ための政策の取材ならば意味を持つだろうが、冷静に考えてみれば、子育て中の人たちは、すでに子どもをもっている(もつことができた)人たちである。多くの人の考え方のクセのようなものなのかもしれないが、少子化対策の文脈であるのなら、どちらかと言えばまだ子どもをもっていない独身の人の話を聞くべきだ、という発想にはなかなか至らないように思う。

もちろん、独身の人の話聞くべきだと思いますが、「子育てが大変そうだから子供を産み育てるのを後回しにしてる」という可能性が十分にあり得る以上、「子育ての大変さを和らげる」ための子育て支援政策を無意味かのように語るのは早計でしょう。

当然ながら、独身の人たちの世界と育児家庭の世界が完全に隔離されているわけではありません。独身の人たちも周囲の人たちや報道等から育児の実態をそこかしこで見聞きするわけです。それで「心身的および経済的に、あるいはキャリア形成的に育児はあまりに大変そうだ」となったなら、結婚出産に及び腰になるのはさほど不自然なストーリーではないはずです。

そこを「すでに子供を持ってる人たちはこれから子供を新たに産み育てるポテンシャルが低い(少子化問題解消に貢献し得ない)のだから無視していい」としてしまうのは、それこそ冷静に考えて浅慮な発想ではないでしょうか。子育て世帯が汲々としておらず生き生きと余裕を持って生活できてる姿を見せてこそ、後進がやってくるというものでしょう。

そして、出てくる論拠が「結婚してる人の出生率は変わってない」です。

では結婚している人の出生率(有配偶出生率)はどうだろうか。意外だと思われる人もいるかもしれないが、あまり下がっていないことがわかる。実際、有配偶出生率は、 20代後半以外は上昇基調にあった。 20代後半も、ほぼ水準を維持してきた。それにもかかわらず全体の出生率が下落してきたのは、晩婚化および未婚化によるところが大きい。

これも各所で見かける定番の論拠なのですが、江草個人的には別に意外でもなんでもありません。

(比較的即効性のある)「労働力」として子どもが多産されていた時代は過去のことで、今や子どもが(少なくとも短期的には)家庭にとって手もお金もかかる「贅沢品」となりつつあることはもはや周知の事実でしょう(本書でも同様の指摘をされてた気がします)。

そして、特に本邦では結婚と出産は直結した連続イベントとしてみなされています。それは著者も認めている通りです。

結婚と出産(子をもつこと)は強く結びついているので、未婚化はそのまま出生率の低下を意味する。

なら、つまりこういう解釈が自然でしょう。子供を持つことに労力をかける覚悟や金銭的余裕がある者だけが結婚しているのだけであると。すなわち十分に子供を持つ準備ができた人たちだけが結婚している。ならば、そういう人たちが子供を同じぐらい持つ(子どもを産む人数をわざわざ減らさない)のは不思議でもなんでもありません。結婚してから子どもを産む算段をするのではなく、子どもを産む算段をつけてから結婚してるのですから。

分かりにくければ別の例で換言してみましょうか。
最近ではお酒を飲む人が減っていると言いますね。しかし、だからと言って居酒屋の客の一人当たりの飲酒量が必ずしも減っているとは言えないでしょう(もちろん実際には減ってる可能性は十分ありえますが、その可能性の存在はこの論旨に影響しません)。
なぜなら居酒屋に入る人はすでに酒を飲む覚悟と酒を飲むための金銭を用意してる状態で入店するからです。当然ながら、自分の意思で居酒屋に入店してる人はもう酒を飲む準備ができてる「選ばれし人たち」なのです。そして、ひとたび飲み始めたならば「せっかくだから」とそれなりの量を飲むのも自然に起こる現象でしょう。
仮に、この場合で「お酒を飲む人が減っている」という少酒化問題の対策をするとしたら何をするでしょう。お酒を美味しくする試みをするとか、お酒を飲むための金銭負担を下げることを考えるのはさほどおかしい話ではないはずです。

少子化対策も同じだと思うんですね。
出産する人(居酒屋で飲む人)が減ってることに対処しようとするなら、出産(酒)に魅力を感じてもらったり、その敷居(心身的・経済的負荷)を緩和したりするのは、王道も王道の方策でしょう。

実際、コロナ禍で客足が遠のいた飲食業界が「人生には、飲食店がいる」というコピーで消費者の気持ちを促したり、GoToEatキャンペーンによる経済的扶助を施したのは記憶に新しいことかと思います。

そこを「飲酒の魅力が他の活動と比べ相対的に弱まったことや金銭的負担の高さの問題でなく、ただ入店してくれないことが問題なんだ!」として、「飲酒体験(出産育児体験)」と分離した「入店対策(結婚対策)」だけことさらに強調するのは、道端でキャッチするだけキャッチしておいて入店後に大変な額の請求書をふっかけてくるぼったくりバーの発想でしょう。あるいは勧誘の時だけ良い顔して「入局さえさせればこっちのもの」と考える悪質な大学医局のようなものです。

極論を述べているようですが、この理屈を述べてるのはあくまで江草ではなく、「少子化対策は子育ての大変さを和らげるための政策ではない」と断じてる著者の側であることに注意してください。

他方で、政府の少子化対策の軸は、有配偶出生率が下がっていなかった段階でも、不思議なことにずっと「子育て支援」であった。しかし、これまで見てきたように、日本人は結婚すればそれなりに子どもをもち続けてきたのだ。ここに「ちぐはぐさ」があることに誰もが気づくはずだ。

したがって、「ちぐはぐさ」があるのはむしろ著者の論の方だと江草は思うのですが、まあ江草は少子化の専門家ではない素人なので、やっぱり何か理解が足りてないのかもしれません。

なので、今回の疑問もいわゆる「素人疑問で恐縮ですが」というやつに過ぎないのですが、残念ながら少なくとも本書の解説も江草を納得させられるだけのものではなかったという主観的感想自体は否定できない事実として断言しても良いでしょう。

あ、もちろん、江草も何も未婚化対策が不要だと言ってるわけではないんですよ。子育て支援は未婚化対策と表裏一体なので、わざわざ「子育て支援でなく未婚化対策を!」と分離して考える方がおかしいのではという疑問を述べてるだけのことです。

それに、子育て支援を放置して、未婚化対策だけに注力し、それがとてつもなく効果を発揮した場合、「結婚はするけど子どもは持たない」みたいなDINKSだらけになる分離現象だって起きえるでしょう。いくらこれまで結婚と出産がひとつながりだったとしても、今後の政策介入の内容によってはその分離が生じる可能性がありえることは注意が必要かと思います。

あと、おそらくは、こうした感覚の違いが生まれるのは著者らには「すでに子育て支援は十分にやってる」という暗黙の前提があるからではないかとも推測します。実際に現役で育児を担ってる江草の体感からすると「桁が違うレベル」で全然足りてないと思うので、そこで立場の相違が生まれてる可能性はありますね。その直観的感覚があるゆえに「これ以上子育て支援にかけるのは現実的に無理だ」とハナから考慮しようともしないバランスの悪い、、、、、、、保守的な議論になってる気がします。

↓子育て支援の感覚が桁レベルで足りてないという話は以前にこの記事で論じました。


働き方改革志向など賛同できるところも多い

色々言いましたけれど、実のところ今後の社会的対策の考え方や具体的方向性のアイディアは著者と近いものもあるんです。

たとえば働き方改革の感覚。

肝心なのは、子育て世帯の働き手に限らず、働き方全般を変えていくことだ。

時間外労働は、独身者にとってはプライベートな時間を奪うことで結婚を妨げる要因になりうる。有配偶者にとってみても、特に共働き世帯では夫婦ともに時間外労働が長いような働き方は、出産や子育てを邪魔する大きな要因になる。転勤も同じだ。結婚を念頭に付き合っている二者の片方、あるいは両方に転勤の可能性があれば、安定した結婚生活を思い浮かべることは難しい。日本のこのような働き方は、結婚や子育てにとって阻害的に働きうる。

時間外労働を含め長時間労働することが奨励されてる労働慣行を変えることは、少子化対策としても必要なことであると江草も同感するものです。

あるいは、「社会の仕組みを変える」ことの重要性の指摘。

少子化対策は、予算をさけば効果が出るといった単純な問題ではない。社会の仕組みを変えることも必要になる。「仕組みを変える」ことと「お金を出す」ことは、関わり合いつつも、同じことではない。

これもその通りだと思います。「仕組みを変える」ことをしないと実際には何も変わることはないでしょう。(ただ、社会の仕組みを変えるための触媒、あるいは仕組みが変わったことの発露として「予算をさく」という発想を江草は採りますが)

また、本書では総じて若者や独身者の経済的余裕をもたらす社会的仕組み作りを志向されており、いわゆる「ワーキングプア」を解消することが結婚と、ひいては出産につながるという考え方をされています。これも江草も大事なことだなと賛同します。(ただし、その方策としてベーシックインカムのアイディアを推します)

このように、社会文化面や労働面や経済面での対策の大まかな方向性自体は、江草の考えと近いところは多々あるんですね。そしてそうした対策をしてこそ「子育て支援」の効果も上がるというものでしょう。だから、本書の主張全体がことごとくおかしいとかそういうことは全くありません。


子育ては「必要悪」なのか?

ただ、先ほどから指摘してるようにどうしても違和感があるのが著者における「子育て」そのものの扱いなんですね。

著者の育児に対する姿勢が顕著に表れてるのが「こどもまんなか社会」「子ども中心社会」に対する批判の箇所です。

 こども家庭庁のスローガンは「こどもまんなか社会」である。しかし、そもそも子どもを大事にすることと少子化対策は、関連はするがイコールではないことを忘れるべきではない。
 まず、「子ども中心」のつくり方は一つではない。極論だが、「大人は仕事や楽しみを含む自分の人生を犠牲にして子ども中心に人生を考えるべき」という方針で政策を推し進めれば、「子ども中心社会」になる。しかし、こういう社会づくりに人々は合意しないだろう。子どもをもつのは、政府でも企業でもなく個人あるいは家族・世帯である。「子ども中心」が負担になるくらいなら、人々はむしろ「子どもをもたない」という選択をするかもしれない。それでも、非常に限られた人だけが子どもをもち、その子どもたちが社会的に重視される社会は、立派に「こどもまんなか社会」である。そしてこの「こどもまんなか社会」は、極端な少子化社会である。屁理屈に聞こえるかもしれないが、あり得なくはない。

 少子化対策で重要なのは、人生を子ども中心に構築することではない。むしろ大人にとって、結婚したり子をもうけたりすることが人生の他の側面にあまり影響しないような社会をつくることこそが肝心だ。逆説的だが、子どもが人生に占める位置があまり大きすぎないような社会のほうが、子どもは生まれやすいと言える。

これらの箇所を見るに、どうも著者は「子どもは人生の足枷である」とか、「育児は大人が子どもに隷属した状態」みたいな感覚で捉えているように見受けられます。そうであるとするならなおさら子育て支援が重要になるのではと江草は思うのですが、これまで見てきたように、どうも著者はそうは思われないみたいなんですね。

しかし、本書はそもそも少子化問題について語る本でした。子育て支援や子ども中心社会にするのは嫌だけど少子化問題は何とかしたいというある意味矛盾した立場を示されているわけです。あえて露悪的な言い方をすると「子どもの相手はしたくないけど、社会として子どもが産まれないのも困る」と言っている印象です。つまり、「子育ては必要悪」みたいな感じなんです。

なんでこんな立場になり得るかというと、おそらく著者が経済主義、個人自由主義的な立場なんですね。

たとえば、GDPに関するこれらの記述。

たとえば中国は、平均的な所得水準は決して高くなく、一人あたり GDP(国内総生産、名目値)では日本や韓国、そして台湾の半分にも満たない。しかし人口規模が大きいため、国全体の GDPは世界 2位で、そのために中国の国際社会におけるプレゼンスは非常に大きい。

さきほど、一人あたりの GDPでは日本と韓国は同レベルだが、国全体の GDPではかなりの差があることを述べた。読者のみなさんなら、一人あたりの豊かさが大きいが人口規模が小さい国と、その逆に一人あたりの豊かさは小さめだが人口規模が大きい国のどちらのほうに住みたいかと問われれば、どちらを選ぶだろうか。おそらくだが、他の条件が同じならば、多くの人は前者であると答えるのではないだろうか。

「GDP=豊かさ」という素朴な図式をそのまま適用し、しかもそれがプレゼンスになるとして重視されています。まあ、世の中で主流な常識的な感覚ではあるのですが、著者が経済主義的な立場を取ってることは垣間見えます。(この図式の問題点については後述)

あるいはこちらの「経済成長による税収の増加」「将来の納税者としての子どもたち」の発想もまさに経済主義のそれでしょう。

たとえば「社会保障制度の維持」が問題であるのなら、優先順位のトップは明らかに出生率向上ではない。もちろん出生率・数が上がるに越したことはないが、その効果が出るには、生まれてきた子どもたちが税・社会保険料をたくさん納めてくれるまでのタイムラグ──短くて 20年、長くて 40年ほどだろう──がある。ということは、先に(あるいは同時に)それ以外の対策を考えなくてはならない。経済成長による税収の増加、高齢者向けの医療やケアの効率化、予防医学による高齢者医療コストの圧縮などである。

「納税者としての子どもたち」論の問題点については江草も過去に記事書いてます。

(なお、余談ですが「予防医学で医療コストが圧縮されるとは言えない」というのが医療経済学での定説です)

また、本書ではそこかしこで「労働力確保」としての文脈で出生率向上や移民受け入れ促進を語られています。

また、社会保障の財源の問題に対応しても、労働の担い手不足はしばしば解決しないことがある。過疎地の行政・ケアサービスをどうするか、外国人労働力・人材をいかに安定して獲得するか、といった問題への対応が、本来は少子化対策の焦点になる。

そして、その上で「子ども中心の人生はダメだ」と言い放っている。

つまりどういうことになるかと言うと「GDPという豊かさを反映している(はずの)数字を伸ばし続けるために社会の労働力確保として(移民も含めた)少子化対策はしないと仕方ない。しかし子どもの隷属状態に置かれる育児担当者がかわいそうだし、各個人の仕事を通しての自己実現や自由な人生を担保するためにも、我々は育児からできる限り解放されるべきだ。そしてすでに生まれた子どもはその後大事にしたところで出生数(率)という数字に寄与しないから、子どもを大事にしようとする発想の子育て支援は無駄」という感覚が透けて見えるわけです。

あえて露悪的な言い方をすると「経済を回すため、我々が自由な人生を謳歌するために、コスパ良くタムパ良く効率的に子どもという次世代の労働力を生産しよう」と言ってる印象が拭えないんですね。

まあ、これはこれで一つの立場ではあると思うのですが、江草からすると、そもそもこの経済主義的、効率主義的、個人主義的思想自体が少子化の原因だと思うので、これこそなんとも「ちぐはぐ」な態度に感じます。イメージとしては、瀉血療法が原因で体調を壊してる患者に「これは瀉血が足りないからだ」とさらに瀉血を勧める、過去の医学の黒歴史みたいに思えます(ちなみにアメリカの初代大統領のワシントンはこれで亡くなったらしいです)。

これは行儀の悪い印象論ではあるのですが、言ってみれば、著者は少子化対策の話をしてるはずなのに、総じて「子どもの体温が感じられない」んですよね。無味乾燥で冷ややかな数字や制度を追う話ばかりで、そこにお互いに人と人として関わり合う生身の親子の姿が全然見えないのです。もちろん学術的議論だからあくまでドライに徹してるという可能性はありますが、どうもそれを通り越して子どもに対して冷徹な感じなんですね。

別に「子ども中心の社会」というのは子どもに大人が隷属してる社会を指すわけではないでしょう。
確かに、ワンオペ育児は過酷すぎて、隷属に近い状況に置かれるケースはままあります。ただ、それを大人みんな、すなわち社会で支えましょうという「子ども中心の社会」の発想は、むしろ育児担当者をそうした「隷属状態」から解放することなのですから、なぜそれで子どもを大事にする「子ども中心社会」が「親個人の人生を犠牲にする」と解釈されるのかは理解に苦しみます。だいたい「社会」と言ってるんですから「家庭内で育児を完結する」という発想にはならないでしょう。著者の藁人形論法でしかないと思います。

もっとも、「そうした歪んだ解釈をする者もいるかもしれない」という例に過ぎない、あえての極論ということかもしれませんが、それにしては著者の言い分全般が「子ども中心社会」や「子育て支援」に対する批判と整合的であり、ぶっちゃけ本音なのではと疑ってしまいます。家庭内で育児を完結することに否定的な立場であれば、おのずと「子育て支援」に支持的になるはずでしょうから。

だから、なんかこう、全体的に子育てが「仕方なくやらなきゃいけない個人・家庭・社会における重荷」みたいな扱いになっていて、その「子どもの体温が感じられない感覚」が江草とはちょっとフィットしないんですね。


少子化問題をバランスよく、長期的視点で議論すべき

また、本書を通して、著者は「バランスよく見ること」「バランスよく議論すること」「長期的視点で見ること」を強調されています。

この感覚自体は江草もとても賛同するものなんですが、たとえば先ほどの「GDP=豊かさ」という図式は素通りで採用されたり、若者の経済状況の困窮を「安定した雇用の創出」でなんとかしようという旧来のパラダイムに基づいてらっしゃったりというのは、それこそ議論のバランスが取れてないと思います。

たとえば、GDPについては、ダイアン・コイル『GDP』でも、その指標としての限界が指摘されてます。

著者が出生率という数字の定義の曖昧さについてはかなりの紙幅を割いて詳細に検討していた割には、GDPという数字はあっさり「豊かさ」として素直に受け入れてるのはバランスの悪さを感じます。


また、若者の経済的困窮の問題を「安定した雇用の創出」でなんとかしようとするいわば雇用主義の考え方はデイヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』でも批判されてるところです。世の中が無理やり雇用を作ろうとして、非人間的かつ社会的意義もない「クソどうでもいい仕事」が多数生まれているという指摘ですね。


あと、著者は、出生数や出生率はすぐに上昇することはないからそれらの数字をなんとか上げようとすることよりも、少子化の状態で社会をどうにかして回す対策を考えることが優先だという話も繰り返し強調されてますが、それこそ長期的視点でない、刹那的で近視眼的な感覚ではないでしょうか。だって「効果が出るのに時間がかかるから後回し」って言ってるわけですから。

最近では〈長期主義〉という思想も支持を集め始めてると聞きます。これはこれまでのこうした「とりあえず直近が上手く回ればいい」とする社会的パラダイムが結局は近視眼的過ぎたことの反動ではないでしょうか。

なお、この辺のGDP(経済成長)と長期的視点のジレンマの問題については過去に記事で考察しています。

もっとも、江草は別に本書の著者の立場が誤ってると断じているわけではありません。そうではなく、「バランスよく議論しよう」と言われるならバランスよく議論すべきですし、「長期的視点で見ることが大事」と言われるなら長期的視点で見るべきでしょうと江草は言ってるに過ぎません。

著者は「少子化対策には社会の仕組みを変えるべき」とおっしゃってます。ならば、GDP依存や雇用依存、そして短期的目線になりがちという既存の社会の仕組みも一度議論の俎上にあげるほうがバランスが取れてると言えるんじゃないでしょうか。


少子化問題の議論のとっかかりにオススメの一冊

気づいたらなんだか批判的なコメントばかりになってしまいました。しかも、ぶっちゃけまだまだ突っ込みたいところが山ほどあるんですが、すでに10000字近いので、今日のところはこれぐらいにしておきましょう。

まあ、これはそれだけ江草にこだわりがあるテーマだからこそということでご容赦ください(本書相手に限らず少子化問題系のテーマではだいたい熱くなってしまうのです)。

むしろ、ちゃんとこうした議論が可能になる題材となる書籍というのは素晴らしく意義があると思っています。Xのポストみたいに文脈も論拠も何もなく吐き捨てられるばかりの言説は議論のしようもないですからね。

で、(何も無理やりフォローしようとしてるわけではないんですが)実際、本書は最新のデータや知見がきれいにまとめられていて「少子化問題の今」を把握するには絶好の一冊ではあるんですね。この辺のファクトの提示の幅広さと堅実さはさすが専門家の仕事と思います。読んでて学びがありました。

そして、さすが「バランスの良い議論を」と述べられてる通り、巷の少子化対策に関する浅慮で断定的な俗説は一蹴するパワーは持ってらっしゃいます。例えばこちらに見られるような「婚外子や移民の奨励で出生率が上がるぞ」的な軽いノリの意見はがっつり本書が論駁されてます。

つまりは、本書は著者自身が語られてる通り、こうした浅慮な「これで少子化問題は解決!」みたいな俗説を退けるための書籍であって、「社会における少子化対策の熟議をこれからちゃんとしていこう」と提唱するのが主旨なんですね。

だから、(著者も意図的に)少子化問題の万能かつ明確な解決策(銀の弾丸)は提示されてるわけではないのですが、最新の知見や基本的な議論がふんだんにまとめられてますし、「少子化問題の議論、ここから始めよう」という意味で、本書はとてもオススメできる一冊です。


参考記事

ご参考までに過去の江草の少子化問題関連記事をピックアップしてみました(順不同)。これでも一部という。どひゃー。


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