見出し画像

我々の敵とはなにか〜神か、他者か、ウイルスか

 「ダイダラボッチをめぐる物語である『もののけ姫』は、大正大学教授の高橋氏のいう消費の構造下にあるのではなく、現代における民話の語りなおしなのではないか?」という問いで前回の記事は締めた。

今回は、
1. 高橋氏の指摘する『もののけ姫』における「消費」とは、なにを指すのか?
2. それを踏まえて、なぜ『もののけ姫』が現代における民話の語りなおしに当たるのか?
3. 自然科学がこれほどに進展した現代において、なぜ民話は必要なのか?


この3点について考えていく。それは結果として「なぜ『民話と演劇』という事業が現在におこなわれたのか?」を思索することにも通じるだろう。

 およそ四半世紀前となる1997年に発表された『もののけ姫』は、スタジオジブリの宮崎駿が原作/脚本/監督を務め、当時の日本の歴代興行収入記録を樹立している。このように多くが視聴したアニメ作品であるが、まずは簡単にそのあらすじを紹介する。

中世(室町時代の頃)の日本。東と北の間にあると言われるエミシの村に住む少年アシタカは、村を襲ったタタリ神と呼ばれる化け物を退治した際に、右腕に死の呪いを受けてしまう。その正体は、人への憎しみからタタリ神と化した巨大なイノシシの神だった。アシタカは呪いのため村を追われ、呪いを絶つために西の地へと旅立つ。

旅の道中、乱妨取りに奔る地侍との戦いや、謎の男ジコ坊との出会いを経て、アシタカはジコ坊から聞いた神が住むという深い森がある地に向かう。アシタカは山奥で倒れていた男達を助け、彼らの村へ連れて帰る。その村はタタラ場と呼ばれる、鉄を作る村であるという。そこを治めているエボシという女は、石火矢と呼ばれる火砲を村人に作らせ、山に住む"もののけ"や、村の鉄を狙う地侍たちから村を守っていた。アシタカが助けた男達も"もののけ"に襲われたもので、呪いを与えたイノシシの神に鉄のつぶてを撃ち込んだのもエボシだという。彼等は鉄を作るために自然を破壊している自覚はあったが、シシ神に力を賜り大きな力を得た動物、即ち"もののけ"達を快く思っていなかった。アシタカは、これ以上憎しみに身を委ねるな、とエボシに忠告するが、村人達にとってのエボシは、生きる希望を与えてくれる女性でもあった。

そのエボシの命を、"もののけ姫"が狙いにくる。その正体は山犬に育てられた人間の娘、サンだった。窮地に陥ったサンをアシタカは救うが、同時に彼は瀕死の重傷を負ってしまう。倒れながらもアシタカは、生きろ、とサンに語りかけるが、人を憎むサンは聞く耳を持たずに、助けてくれたアシタカを殺そうとする。しかし、アシタカから美しいと言われたサンは、動揺して思いとどまる。

サンはアシタカを、生と死を司る神、シシ神の前に連れて行く。シシ神はアシタカの傷を癒し、それを見たサンはアシタカを生かすと決める。サンはアシタカを介抱するうちに、しだいに彼に心を開いていく。アシタカも、森と人が争わずに済む道は無いのかと、思い悩む。

そのころタタラ場には、エボシにシシ神殺しをさせようとする怪しげな装束の男達が集結していた。彼等を率いるのはジコ坊である。男達は天朝よりシシ神殺しを許可され、不老不死の力があると噂されるシシ神の首を狙っており、エボシ達もまた、森を切り開くのをもののけ達に邪魔されぬよう、それに協力したのである。タタラ場を出発したエボシ達は、人間との最終決戦を行おうとするイノシシの大群と大戦争をはじめる。ところが、エボシが留守にしたタタラ場は、鉄を狙っている侍の集団に襲われてしまうのだった。

アシタカはエボシに戦いをやめて村に帰るよう伝えるが、エボシはかまわずシシ神殺しに向い、遂にその首をとる。するとシシ神の体から不気味な液体が大量に飛び散り、それに触れた者たちは死に、木は枯れてしまう。やがて液体は津波のような勢いで山を埋め尽くし、森は枯れ果てて、タタラ場も壊滅してしまうのだった。サンは森が死んだと絶望し、人間に対する憎しみを爆発させる。しかし、アシタカはまだ望みはあるとサンを説得し、二人は協力して、シシ神の首を持って逃げようとするジコ坊を押しとどめ、首をシシ神に返す。

シシ神は首を取り戻したが、朝日を浴びると同時に地に倒れて消える。その風が吹き抜けると、枯れ果てた山には僅かながら緑が戻り、アシタカの腕の呪いも消えた。アシタカのプロポーズに対し、アシタカは好きだが人間を許すことはできないと言うサンに、アシタカは、それでも互いの世界で共に生きようと語る。エボシもタタラ場の村人達に、新たに良い村を作りなおそうと語りかけるのだった。(注1)

1. 『もののけ姫』における「消費」とは、なにを指すのか?

 まずは、高橋氏の指摘する『もののけ姫』における消費とはなにかを明らかにしたい。高橋氏の論考『現代ダイダラボッチ考〜巨人譚が成立しない現代における教育的役割〜』(注2)によると、『もののけ姫』に登場するダイダラボッチを含む「現代の巨人譚は、かなり自由な発想で切り取ったり創作に用いたりすることのできる素材のひとつとなっており、そのような作品に、人間が存在する以前にあったという超自然観を見ることはできない」と記している。そして「そこには、ダイダラボッチが自然地理を作り上げてきたという理解は特に具体的に示されておらず、あくまで人間と対立する役悪(原文ママ)を担う存在、として描かれている」とし、『もののけ姫』などいくつかの作品事例を引きながら、「巨人譚が孕む意味世界が、過去において民俗譚として語られた本来のものから大きく離れてしまい、ただ物語として消費されるもの、具体的には巨人は恐怖の対象であり、それを克服する人間賛美の作品群として提供される」と指摘している。

 要約すると「自然科学の進展した現代に巨人譚はリアリティを失い、ゆえに素材として自由に扱えるために超自然観を喚起させることもなく、対自然という困難を克服した人間たちがカタルシスを得る物語として消費されている」というところだろうか。個人的な見解としては、高橋氏の語る『もののけ姫』の解釈に関して同意できない箇所は少なくないが、ここではあくまでも本作を通じたダイダラボッチや民話を含む民俗芸能の現代における立ち位置を考察する。

 高橋氏が、従来の巨人譚に見られたと指摘する超自然観とは、
「現在知られている自然の理法・法則では説明のつかない、不思議なこと。神秘的なこと。」

とされる(注3)。超自然は自然との対比で語られることが多く、その際の自然とは、人間のコントロール下という意味合いを孕んでいる。そして同じく、超自然の主語も人間である。上述した超自然観の定義の冒頭に「人間」と挿入するとわかりやすい。
「(人間に)現在知られている自然の理法・法則では説明のつかない、不思議なこと。神秘的なこと。」

つまり、人間が客観的/科学的に捉えられる事象を自然とし、その人間にとって説明のつかない、不思議なこと/神秘的なことを超自然と定義している。

 長野県上田市での事業『民話と演劇』で扱った民話『デイダラボッチと後家さん』(注4)に登場するダイダラボッチは、確かに人間にとっての超自然を生きている。朝から日が暮れるまで後家さんがせっせと耕した畑を、ダイダラボッチは「自分の土地だ」と夜な夜なその大きな足で踏みつけては硬い土地に帰してしまう。耕しは踏まれ、耕しは踏まれという日々がひと月以上も続く内に、ダイダラボッチはその後家さんの真面目さ、一生懸命さ、そして信心深さに感心し、ついに彼女の夢の中に姿を現す...。確かに現在に知られる自然の理法・法則では説明がつかない。もし、このような人間以外が生じさせる事象を自然と超自然とに分けるのなら、超自然は現代までにその領域をずいぶんと狭めてきたに違いない。銭による交換経済が浸透し、商売や金融など合理的な計算の始まった室町時代がその転換期とされ、それは『もののけ姫』で描かれている時代でもある。貨幣経済の浸透につれて、人々の富への欲は強くなり、畏れ敬いの存在であった自然を超えようとし始める。『もののけ姫』では、エボシやジコ坊で以ってその様子は描かれている。

 また、盆踊りの源流である念仏踊りが庶民の民俗芸能として広まったのも、ちょうどこの頃であった。室町時代といえば、南北朝の内乱や応仁の乱など、戦乱の世でもある。社会は変容し価値観が移ろう中で、自然の超越へと至る銭による経済も、生活に仏教の教えを重ねる民俗芸能の発展も、この時代の人間たちが安定しない世の中を、それでも懸命に生き抜けようとした痕跡である。

2. なぜ『もののけ姫』が、現代における民話の語りなおしに当たるのか?

 もし『もののけ姫』を民話と捉えるなら、語り手は宮崎駿氏であり、聞き手は1997年以降を生きる鑑賞者である。そこで語られる話は、銭による富という価値観を手に入れ、人間が自然を超越しようとし始める中世を舞台とする。民話とは過去を継ぎ、現在に現し、未来へと活されるメディアである。ひと所に留まらない時間に生じるひとつひとつの概念や価値観をどう捉え、それを踏まえて聞き手と共有し、彼ら自身がどうその生活に民話を活かしていけるかが、語り手の手腕でもある。だからこそ、民話はその歴史的な整合性や正確性以上に、いまも昔も、共有している時代性や聞き手の目線に合わせた語りが必要だったのではないか。つまりは、ある程度のフィクションを前提として共有されている。なので、高橋氏が指摘する「自由な発想で切り取ったり創作に用いたりすること」で、「超自然観を見ることはできなくなった」という指摘に対しては、むしろ民話はかつてより自由な発想で切り取られ、少なくとも民話としての世界観を構築する際の創作には用いられているため、それが現代において超自然観が見られない理由には当たらない。そして、「ダイダラボッチは人間と対立する悪役を担う存在として描かれる」という指摘も、それは人間を中心に据えたエボシの憎しみの視座からの景色である。むしろ、宮崎氏は人間と自然、どちらが善でどちらが悪という視点から描きだすことを必死に回避しようとしている。だからこそ、中立者としてのアシタカが本作には存在する。作品終盤、エボシとジコ坊がシシ神の首を狙う際に、こんなセリフの応酬がある。

エボシ
「シシ神殺しをやめて侍殺しをやれと言うのか」
アシタカ
「ちがう!森とタタラ場双方生きる道はないのか!?」
石火矢衆
「エボシさま、もどりましょう」
ジコ坊
「あいつ…どっちの味方なのだ?」

 つまり、アシタカは自然と人間との共生の道を探っている。「巨人譚が孕む意味世界が、過去において民俗譚として語られた本来のものから大きく離れ、ただ物語として消費されるもの、具体的には巨人は恐怖の対象であり、それを克服する人間賛美の作品群として提供される」という指摘については、過去を継ぎ、現在に現し、未来へと活す「繋ぐ」機能を持つ民話の視座から改めて捉えなおす必要がある。明治以降、大きく変容したこの社会において、かつての意味世界がそのまま保てるわけがなく、上述のとおり、時代や聞き手に合わせた調整が必要となる。そもそも、単に物語としてダイダラボッチが消費されているのであれば、さまざまな娯楽にあふれた現代において、四半世紀も間、その人気を保てるだろうか(注5)。むしろ『もののけ姫』で語られる世界は、中世に生きたこうした無名の民たちの念が、アニメーションという媒体を介して、現代の我々に再び息づいてきたのではないだろうか。

3. なぜ自然科学がこれほどに進展した現代において、なお民話が必要なのか?

 一方で、我々の巨人譚ふくむ民話への親和性がかつてより薄れていることは間違いない。その理由は、特に明治期以降の社会構造の大きな変容により、超自然として捉えられていた領域が急速に失われ、その概念を支えていた我々の想像力が機能しなくなっていることが原因である。そうした背景を抱きつつ、近年では『もののけ姫』に限らず、細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』(2012年公開)や、新海誠監督の『君の名は』(2016年公開)など、民話として読み解くことが可能であろうアニメ作品が次々と発表され、それは日本に留まらず、海外においても人気を博している。このとき、アニメーションという、時間と空間をどこまででもデフォルメできる媒体に、民話的な要素を溶かし込んでいる点は着目すべきだろう。民話語りも、聞き手のイメージに語り手が働きかけてその民話世界の時間や空間を構築するが、アニメーションにおけるその力は絶大であり、一方でそこに鑑賞者の現実感を喪失させてしまいかねない危うさもまた孕んでいる。アニミズムと同じ語源をもつアニメーションが、現代においてその強い影響力と広い波及性を発揮していることは興味深いが、いずれにせよ論理的にダイダラボッチを存在させることは、現在においても、かつてにおいても不可能である。だからこそ、その存在は民話やアニメーションなど、表現の場で語られてきた。それらはいずれも聞き手自身のイメージへと寄与するメディアであり、その多様なイメージの育みこそ、初回に記した多様性の肯定につながる。

 ひとつ明言できることは、ダイダラボッチは高橋氏のいう敵ではない。それは『もののけ姫』と『デイダラボッチと後家さん』に共通する概念である。人間中心に物事を捉えるとき、エボシのようにその感情は憎しみへと変わる。だが、アシタカも後家さんもそれをコントロールし、ダイダラボッチによって生じる事象を認め、受け入れ、祈っている。現在の社会情勢に目を向ければ、時を重ねるごとに苛烈となる豪雨や、この世界中で起こっているパンデミックの様相も環境問題に端を発している。また、アメリカ軍の駐留/撤退をめぐるアフガニスタンでの問題もそうであろう。ある正義を掲げることで、なにかを憎しみで以って見つめ、敵とする行為が生むのは、破滅である。我々人間はなんども同じ道を通ってきたはずだ。いいかげん我々は、個々人が持つ想像力を働かせて、自身の力で世界を見るべきだろう。その試みを、民話やその要素を含むアニメーションは助けてくれるはずだ。

***
(注1)『もののけ姫』に関するWikipediaより引用
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%91%E5%A7%AB#%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E6%94%BE%E9%80%81%E3%81%AE%E8%A6%96%E8%81%B4%E7%8E%87

(注2)論考『現代ダイダラボッチ考〜巨人譚が成立しない現代における教育的役割〜』
https://core.ac.uk/reader/233590034

(注3)大辞林より引用

(注4)ダイダラボッチの伝説は日本各地に伝わり、その呼称はさまざまある。ダラボッチもそのひとつであり、この民話のタイトルは現地の表記に従っている。

(注5)『もののけ姫』はこれまでに11度のテレビ放映の機会があり、2021年8月放送の際には13.8%の視聴率を獲得している。

参考書籍:『折り返し点 1997〜2008』 宮崎駿著 岩波書店

・プロジェクト詳細はこちらから。
民話と演劇 この世界をもう一度紡ぎなおすための物語

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?