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江戸時代/ 『株仲間』(公認の同業者どうしの組合)について


江戸時代には、商工業が飛躍的に発展して、実にさまざまな業者が存在していました。  

塗物の専門業者、釘の専門業者、薬草の種の専門業者、紙の専門業者、等々です。

こうした業者は、自分たちの既得権を守るために、同業者どうしが集まり、『株仲間』という公認の組合を作っていました。

今回は、この江戸時代の組合『株仲間』について、解説いたします。


〈目次〉
1.株仲間の概要
2.株仲間が作られた目的
3.株仲間の運営 
4.株仲間の変遷と終焉


1.株仲間の概要
株仲間とは、江戸時代に商工業者が幕府や藩から許可を得て結成した同業組合のことです。

商工業者が既得権を守るために、商品の生産・販売を独占し、商品の価格が下がりすぎないようにしたり、新興業者を排除したりすることが、主な目的でした。

株仲間は、江戸時代初期から中期にかけて大きく増えましたが、江戸時代後期になると、弊害が目立ってくるようになり、幕府は統制に乗り出しました。

そして、明治時代になると、国内の市場のあり方が大きく変わり、株仲間は自然に消滅したのです。

江戸 日本橋近辺 行きかう人々


2.株仲間が作られた目的

江戸時代初期から、山林や漁場を利用する権利、米を仲買する権利、両替する権利をはじめとする営業上のさまざまな特権が売買や譲渡の対象になっていました。これを「株」と言います。

商工業者の場合においては、株の売買や譲渡がさかんに行われていました。

この時代は職業の世襲制が定着しつつあり、親の職業を子が受け継ぐようになっていました。

しかし、既得権としての株を失えば、当然世襲した職業を続けることができなくなってしまいます。商工業者にとって、株を守ることが何よりも重要でした。

そこで結成されたのが株仲間です。
商工業者たちは同業者どうしで協力して組合を作り、株を失わないようにしていました。

当初、幕府や藩は、商品の質や価格を安定させたり、外国からの貿易品を統制したり、治安を維持したりするのに株仲間が役立つと考えました。

そこで、すでに結成されていた株仲間を公認し、保護する政策をとりました。

江戸時代中期になると、農村の商品生産が増加し、流通経路が拡大したことを受けて、市場のあり方が変化しました。

そのため、商工業者は既得権が脅かされないように、多くの株仲間が結成して特権を得ようとする
動きが活発になりました。

幕府や藩は、営業税として「冥加金」を上納することなどを条件に、この新しい株仲間も公認しました。このことによって、株仲間は増加し続けました。

代表的な株仲間としては、江戸時代初期には生糸貿易を独占した糸割符仲間があり、江戸時代中期には江戸の十組問屋や大坂の二十四組問屋といった荷受問屋の連合組合がありました。

3.株仲間の運営
株仲間には、行事(または行司)や年寄、年番、取締と呼ばれる役員がいました。株仲間の方針は、こうした役員が寄合を行って決めた上で、その株仲間に参加する商工業者に厳しく守らせました。

株仲間の基本的な方針としては、既得権を守るために、自分たちの株仲間への新規参入を制限したり、株仲間に参加する商工業者以外の営業を禁止しました。

4.株仲間の変遷と終焉
株仲間によって、同業者どうしの競争を排除することで、商品の質や価格を安定化させることを目的としました。

株仲間が結成された初期段階においては、不良品や不正行為を排除することになり、そのことで商工業者への信用を高める点で役立っていました。

しかし、やがて株仲間が市場を独占するようになると、商品の価格をつり上げて物価高騰を招くなど、弊害が目立ってくるようになりました。

そのため、江戸時代の中期から後期にかけては、株仲間に対する幕府の対応は大きく変わりました。

江戸時代の中期にあたる、18世紀後半に、田沼意次が政治の実権を握ると、幕府の財政再建を目指して、当時幕府の重要な財源の一つになっていた冥加金を増やすため、多くの株仲間を公認しました。

田沼意次

これによって、株仲間の数は大きく増えることになりました。

しかし、幕府の財源確保を冥加金に頼ることは、政治権力と商工業者との癒着を生んでしまいます。

その結果、田沼が活躍した時代には、賄賂が横行するようになりました。

しかし、江戸時代後期には、株仲間が市場を独占していることを利用して、商品の価格が下がらないようにしたため、物価が高騰しました。

この弊害をなくすため、老中・水野忠邦は天保の改革の中で、1841年に株仲間の解散を命じたのです(株仲間解散令)。

水野忠邦

そして、これと同時に、市場の価格調査が実施され、価格表示や価格の引き下げなどが強制的に行われました。

この改革は、単に物価高騰に対処したのではなく、江戸時代初期から長年続いてきた特権的な流通の仕組みを解体することにつながりました。

そして、その10年後の1851年には、老中・阿部正弘が問屋組合再興令を出し、新しい形で株仲間を作り直させました。

その際、従来の冥加金を廃止する一方で、新たな株仲間に対しては、市場の独占や価格のつり上げなどの不法行為を禁止し、新規参入への制限を撤廃することを約束させました。

もともと既得権としての株を独占して守ることを目的に結成された株仲間は、ここでその役割が大きく変化したと言えます。

江戸時代末期の開港以降は、外国との貿易が増えたことにより、新たな市場が生まれることになりました。

日本開国

その結果、株仲間が既得権をもっていた従来の市場が縮小され、明治時代に入ると、株仲間はその役割を終え、次々と解散していきました。


以上

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