見出し画像

『アメ横』の歴史/ 戦後からの成り立ち

History of Ameyoko



現在、「アメ横商店街」は、上野駅と御徒町駅の間の高架鉄道に沿って続いており、一部は高架下になっています。

地域一帯は第二次大戦中、大空襲で破壊されました。アメ横はそうした上野地区の戦後復興を象徴しています。

太平洋戦争末期、米軍による焼夷爆撃を受けたことで、東京の中心部と東部は灰燼※に帰し、街の商業システムは壊滅しました。

※ 灰燼(かいじん): 建物などが燃えて跡形もないこと。

1945年8月に終戦を迎えた後も、連合軍による占領で経済統制が敷かれたことにより、事態は一層悪化しました。

全体的な食料不足に対応するため、戦後直後に至るまで、食料やその他の日用品が配給されていました。

この配給制度と並び、雇用機会の不足や政府の手薄な統制、そして全体的に荒廃した経済状態といった要因により、闇市が誕生しました。

闇市は、利用者の多い鉄道駅付近に位置する場合が多く、米や野菜から、軍支給のサングラス、占領軍の備蓄品から調達したレザージャケットまで、様々な商品を扱っていました。

北日本への玄関口である上野駅の隣にも、闇市が発生しました。駅のすぐ南に位置する闇市には、ハードキャンディー(日本の飴)を販売するいくつかの屋台がありました。

占領軍当局が砂糖を規制したため、甘い物をどうしても食べたい人々は、様々な代替品に頼る必要がありました。その選択肢の一つがサツマイモから作ったキャンディー、そしてもう一つがアイスキャンディーでした。

上野の闇市の店主は、上野駅の電車を待つ旅行者に、その両方を販売していました。誰も予想しなかったほどの需要がありました。

東北地方(日本の東北部)の業者は、バッグに商品を詰め込み、上野まで電車で向かい、そこで商品を販売し、稼いだお金でキャンディーを持てるだけ買いました。

そして持ち帰った東北地方で、その3~4倍の利益で販売していたのです。間もなく上野の闇市には数百軒の飴屋ができ、アメヤ横丁(「飴屋通り」)というニックネームの由来になりました。

それを略したのがアメ横で、もともとアジアの大陸部に駐留していた日本軍の復員兵により管理されていました。復員兵らは1949年、地元の同業組合を結成しました。

1950年に発生した朝鮮戦争により、軍需物資への需要が急増しました。日本経済が活性化し、米軍物資が新たに流入するようになりました。

そして間もなく、極東に駐留する米軍兵士へ向けた物資が放出され、東京の路上で禁制品として取引されるようになりました。

ハーシーチョコレートやジッポライター、レイバンサングラス、ブルージーンズと並び、石鹸やカミソリをはじめとする軍支給の必需品など、米軍商品を専門に扱う店舗が、上野市場(飴屋通り)の南にある御徒町駅付近で開業しました。

米軍放出品の取引が行われるようになったことで、商店街はアメリカ横丁(「アメリカ通り」)と呼ばれるようになりました。これらの店舗はその後、付近の飴屋と統合し、2つの「アメ横」が1つになりました。

アメ横の業者は、その後数十年にわたり、好みと需要の変化に適応してきました。しばらくして缶詰商品のために飴の販売を終了し、さらにその後、新鮮な魚や珍奇な品物に切り替えました。

今日のアメ横は、海産物や果物から、化粧品やチョコレートまで、様々な商品を扱う店舗の寄せ集めです。

アメ横 (上野アメ横商店街公式サイト)


これには、東京の人々が必要とするあらゆる商品を、業者が供給するための場を提供してきた、商店街の歴史が反映されています。


引用先: 「観光庁」ホームページ

以上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?