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呪術散歩


あぁ文章書きたい書きたい詩も書きたいなぁーと日々思ったまんまのクラウチングスタートの姿勢のままで今日に至る。痕跡、文字として痕跡が残らないと日々がまるで無いみたいだ、過去は記憶すべきもの?過去を燃焼し忘却のジェット噴射で俺たちは現在に立つことができているのかもしれない。それとも、過去は物質のように積み重なりその上に立つ高さによって人生は計られるんだろうか?

最近の人には性別も年齢も聞いてはいけないらしい、人に何で聞いたらあかんの?とたずねたら、年齢答えて「あら、お若いですねぇ」と言ってもらえないおばさんがいるからやで、と教えられた。

むむ、しかし世の中はどんどん初心者向けになってきている、なにもかもが説明的でその説明書の類の文面が脳に浸透していかないタイプの脳なので僕は、この初心者向けの社会がすごくハードモードである。

例えば職人の作業であったものに、ひとつの作業が加わる、すべての苗にピンクテープを巻くようにお達しが下される、初心者が草刈りする時に見分けやすくするためだと言うのだが、この作業に一日の作業の三分の一くらいの時間を取られる上に、単価は変わらない、っざっけんなよ。いままでそんなもん無しでやってきた、眼を慣れさせ鍛えるしかないのだ、そしてきたわった職人眼はもはや不要だというのか。

何につけてもこの様相で、苗も植えるのがイージーで重いものになったりするし、防御装備も色々増えていく、全てが初心者向けになっていきベテランは足を取られる、だからこそ初心者社会は僕にとってハードなのだ。

思うに僕は読み易い、論理的な本がろくに読めない、理解もできない、なので平積みの売れてる新書とかの大部分が面白く感じられない、少なくとも言えることは売れる本は論理的に書かれているということ、僕はその論理を飲み込む脳力がない、ってか論理がだからこうでああでであるからしての流れがもはや新しい詩のように読めてきちゃって、ってかアレルギーやな、これは論理的なテキスト読んでると感情のせせらぎに流れる自分を感じるし、硬いテキストは斬新な詩というように読んでしまう。自分の内部のナイーブの自己が理解という洗脳へと導こうとするテキスト、説明的でわかってほしいちゃんなテキストに抗うアレルギーだ、わかってやれねぇよ?だってそれはあなたの過去の見解でしょ?

ナウで紡がれる紙面に穿たれた著者の悶絶みたいな文章こそ僕は飲み込んで腑に落ちてぶるぶるふるえうる

おい、日記書こうとしてたのに書くことを楽しむなよ、このテキストのどこに俺の日々がはめこまれているんだ、まぁ久しぶりに書く文章が楽しいということは伝わればいいな

道の駅はまさにグローバルな軍靴の行進が地を均すが如くに地方を地平へと変えてしまった、それでも息づく地方性というものがあるとすれば、寺社仏閣かもしらん、そんな動機でもないけれど、神社巡りをするようになった、というのも近所の氏神さんに1日15日の月2回お参りしよかーってノリで家族で通ってたら、次男のぽちぇさんが灯籠に惚れ込むという不思議な流れになった。

散歩でもドライブでも灯籠があれば反応、「さわりたい!」っと言ってさわりにいく、そして休日のひとつのバリエーションとして灯籠をさわりにいくという新たなルーティが我が家に加わることで、なかなか面白い。

灯籠から見る世界はとっても多様で、灯籠を求めて父ちゃんの感覚で(ろくに調べるようなこともしない、ってか灯籠とか検索できへんし)うろつくと必ず面白いところに行き着く、こんなところにあったのかな神社や寺にたくさん巡りあう、こないだは香川で壮大なロープウェイにまで乗って山頂の雲辺寺に行ったら見事なまでに灯籠ヘブンだった。

地方の地方性はやっぱりこういう道祖神や産土神的な信仰や上書きされまくったものではあるけれどもそれも歴史として楽しめる寺社仏閣巡りにこそ生き残ってるようにおもう。

ってか、それ以外がまじで死滅しているのである。僕は危惧している、とっても危惧している地方にはすでに蛍の光が鳴り響いているのではないか

一見、地方都市にはたくさんのスーパーやスーパーやドラッグストアやドラッグストアや24時間スポーツジムや24時間スポーツジムや回転寿司や回転寿司やホテルやホテルがぼこぼこできていってる、なんぜ2回ずつ書いたかというとひとつできると必ずセットでライバル企業による同種の施設ができるからである、これら乱立する店舗を冷静にみると、これらは地元の需要みたいなものとはまったく無関係に乱立していることがわかる、もはや採算度外視、それは都市部の企業の節税対策なのか?あるいは都市部にある本社同士の地方戦なのか、とにかくそれら商いの矛先が明らかに地元民に向いていない。

この流れはここ数年でどえらい加速している、なんつうか地元民の需要の無視っぷりというか、んで、多分こんなもん蜃気楼みたいなもんでそのうち全部セットで潰れると思う、片方が買って残ったとてその勝った方がその立地場所から生き残れる収益が上がるようにも思えない、どのジムもスッカスカやしホテルもからっからやし、スーパーも、全然詳しくはないけど、地方都市のなんか嫌な感じが拡大してる気がする、近くのブックオフが潰れてショック。

ふう、ネガテブなこと書いてたら疲れる、んな感じで多様ではない地方都市に営みたまに多様な灯籠に触れるというルーティンもなかなか良いな。

ってかなぜか今、魔術と人類学の本を読んでいるどちらも超おもしろい、ってか最近調子良くなってきた気がするのは読む本が面白いからだ。元気ないと元気なくても読める本を読もうかとかってなってそんなもんオモロいわけもなくおもろない本を読むことになる、やっぱ難儀でも登るような理解へとかきつくような本をこそ読まなあかんな。

レヴィナスを紹介した本読んで、なぜか神道に興味をもった、イスラム研究の井筒さんを描いた安藤さんの本読んだりして、あぁ呪いや呪い呪術こそ人間の本質的なもんなんやな、井筒氏曰く言語がありその意味がある、その意味とは呪いなのである(って勝手に解釈した)意味、、まさに意味の伝達によって俺たちは成り立つ、で、小松和彦氏の日本の歴史のB面、鬼とはなんぞやの対談本読んだりしておもろい、で、また宇宙に興味持つ、ってか宇宙と神の関係性みたいなのに興味もつ、だからまたもっかい立花隆の「宇宙からの帰還」読む、アストロノーツたちと神との対話。で、量子物理学とか先端の宇宙論の紹介本読む、物理学の基礎みたいなのをユーチューブでみておもしろかった、からの多次元宇宙論とか、量子力学の理論物理だとかナルホド、そっから網羅的人類学Dグレーヴァーの「万物の黎明」うひゃあこれは出会っちまった、素晴らしい。興奮、多分マンフォードの機械の神話、権力のペンタゴン以来の衝撃、「ホモサピエンス全史」とか「銃病原菌鉄」とか論理的すぎてねむなるしおもんなかった、で、思うけど。論理的なものへの拒否感ってのはさ、きっとてめぇの論理文脈モノガタリのために実際の歴史や人々の生涯燃やし尽くしたカロリーを消費するなよ!っていう反感なんだよな。平積みの人気本たちや人気語り系ユーチューバーが紹介する本にはやんわり優しく付き合ってきたけど、いな、ムカつくんだよな。ってほんまにオモロい本読んだら自分の感情を再確認できた!

南方熊楠が柳田にプチキレてたのもこういうこっちゃない?やっぱ銭湯とか居酒屋でじじいたちとべしゃってた熊楠からすると、柳田の村民を連れてきての聴取的な手法ってのは大英博物館がガラスケースに納めて陳列する土着民の聖なる品々とか、殺して薬品を注入してピンセットで杭打ちする昆虫採集みたいなのに近いんだろな、完全に無害化してからカタログ化する方式での語り。

例えば同一の産地の貝殻やら装飾品が広い地方に拡散していた場合ハラリのテキストではそこには市場のようなものがあったに違いないという書き方する。俺は過去を今の概念で仕分けるものが人類学だなんて思わない、過去の生き様や考え方を発見することで現代や現在の概念を爆破してもらうためにこそ過去を発掘するのが人類学だとおもう。その点グレーバーとウェングロウ(万物の黎明は2人共著で書いてる)の人類学ははしってて、同一産地の貝殻や装飾品が広い地方に拡散していることを分析する時、そこには少なくとも3つの原因が今のところ考えられる、1、夢。2、ギャンブル。3、旅芸人、薬売り。
ってもう読んでてワクワクする。1、当時その地域にはどうも夢による物々交換が行われていたとか、夢であなたの家の装飾品を見たので私に権利があると言ってそれを譲りわたすような風習が広く存在した。2、当時そのあたりではギャンブル好きの女性が多くアクセサリーなどの装飾品を賭けてのギャンブルが横行していた。3、旅芸人や薬売りによる通貨としての貝殻の拡散。なんて具合で、ひとつひとつの過去の出来事へのコミットが違う、そこには実存がある、だよなぁぁ、すげぇなぁああってなる。まだ3分の1くらいしか読めてないけど。

で、人類学もやっぱり呪術の研究的に読んでる自分がいる、先史から人類がエコノミックアニマルで政治のことを常に考えてきたという、人は群れ統治するし統治の手段を実験し続けてきた、狩猟採集民だって巨大建築を作るし、一時農耕が流行ったりまたやめて狩猟採集民に戻ったりもする、これは権力パワアの論理かもしれない呪術って畏怖し畏怖させ納得し拘束しまとまって営むための何かなんだろう、大文字の「意味」において人民を捉えること

んなことを考えて読書してる、最近は瞑想したりもしている、支離滅裂になっちまった集中力を取り戻したい、取り戻してまたもっかい解放したい、魔術の本にはあらゆる魔術の実践が書かれててワクワクする、しかも黒野氏の魔術は宗教的な側面が結構削がれていて、それもあって飲み込みやすい、同時にカジュアルに危険なことをやっちまいそうな危険もあると思う。

基礎魔術のところでは多分禅とかヨガでも似たようなものがたくさんあると思うけどそれをより論理的にやってる感じでわかりやすい、っで、読んでて思ったけど、そのほとんどを俺も若い時に何も知らんまま実践してた気がする。

アメリカで孤独のあまり壁のシミとずっとしゃべってたり(まじでしゃべってくれる)木に人生相談したり(こたえてくれてた)、果ては山村の奥地で深夜、農機具の納屋に閉じこもって闇と対話したり、闇夜の琵琶湖を裸で泳いで水草の体に触れる様に色々なことを教えてもらったり、すべて自分で編み出した自然との自分との対話だからこそなにがしかの力を得た気がするし、魔術の本でも素晴らしいところは、あらゆる実践をこれをこうしなさいじゃなくて、印形も呪文も自分で作らせるところから教えるところ、自分で作ってそれを信じろというところに納得できる。

だからざっと流し読みしながら、自分のかつての坐禅や瞑想や対話を思い出してた、呼吸にはあらゆるヒントが隠されてる呼吸から全てを学んだといってもいい、今日もこの辺で書くのをやめて座禅して寝る、何かを知らなくても学ばなくても教えてもらわなくても宇宙を理解しなくても、吸う息の中にそれらは含まれているし、自分の肺はそれを解釈し吐く息と共に表現を世界に還元する、その本質的な営みにいかに耳を澄ませるか、読書はその取り付きだし、そこから先は孤独に歩まないといけない、他者や隣人や家族や友人もきっとその孤独の向こうにいる。

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