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男が「男になる」の性別規範:「女性の雑談」ダイアリーより

2024年1月にスタートした「女性の声・プロジェクト」のうち、YOORというプラットフォームをつかって、意見交換のコミュニティを作っています。

この中で「板敷ヨシコ★ダイアリー」として、毎日気になることを書き留めています。昨夜書いたものをnoteでも紹介したいなと思ったので、ちょっと書き加えつつ、下記に転載します。

男が「男になる」の性別規範 

2月1日のダイアリーにいただいたコメントを受けて、もう少し考えてみようと思います。

男性はどんな規範の中で生きているのか、仕組みから考えてほんの少し。

戸籍には性別役割、年功序列、といった規範に作用するという側面があるのですが、日本で日本人というものを規定する仕組みとして強く作用しています。

その戸籍には家族の役割規範、精神性が牧野英一らが音頭取りする形で意図的に込められてきたという文献があります。彼が特に込めた思いとは、「家族の相互扶助」という社会規範ともいえる精神性です。

家族という集団の責任を持つ役割は、父親と長男が担うものである、というのも戸籍のあり方が強く影響しています。次男、三男...、は、この家での責任を担うことはなく、結婚してこの家を出て家庭を作ることで責任を「晴れて」持つことができるようになります。

私の記憶では、こうやって家族の責任を持つことを、かつては「男になる」なんていう言い方をしていたように思います。

例えば私が若い時に勤めていた職場には、誰もが認めるいまいちな仕事ぶりの男性係長(仮に田中とする)がいたのですが、彼が結婚するとなったときに彼の上長は「田中くんも結婚することだし、そろそろ課長にしないとな」とほのめかしていました。おそらく、企業によっては似たようなマインドが今でも残っていると思います。

つまり、ほんの少し前まで、たぶん東京でも今の45歳くらいまで、あからさまに言われていたのが、家族を持つことが「男になる」ことだったということです。長男は父親と同等の責任者であることを期待されて育てられ、そして次男三男...は家族を持ち外に出る、言った具合です。長男は「氏」を継ぎ、墓を継ぐ。家業がある場合は家業を継ぐ。その「責任」に足るだけの人物になることが特に長男には期待されていました。おそらく今もなんとなく長男は期待され、末っ子は自由に生きたらよい、という雰囲気がある過程は少なくないと思います。

だから、日本の男性にとっては、結婚できないことは「男になれない」という屈辱的なことであり、モテない、結婚できない、というのを「弱者男性」という名の下にカテゴライズしてしまう、といった差別的なことが起きるのでしょう。

また、モテはセックスとも結びつき、セックスができることを「男らしさ」とする観念もとても強いように思います。これは戸籍的な「男らしさ」という武家的な価値観に庶民的な男根崇拝が裏支えをしているのではないかと考えたりしています。

こういったことに付随して組織のあり方など色々ありますが、男性が「男になる」ということは「家族を経済的に養う」ということであって、日本ではこの考えが組み込まれたシステムで動いています。

なので、賃金の分配に「男性並み」の女性が入ってくるのは気に食わない、というのとか、女は結婚しなくても女でいられるのに男は結婚できないと男になれない、とか、色々不満があるのでしょう。。。

そして、「男になる」「男としての責任」を信じて内面化している人ほど、女性がキャリアを積む意味は分からないだろうし、女性が野心を持つなんて想像すらしないのでしょう。なぜならば、その「男になる」の対の概念は「母になる」なのですから…。

【参考文献】
利谷 信義(1992)法社会学における家族研究の立場から. 家族社会学研究. 1992 年 4 巻 4 号 p. 11-18,123
下夷美幸. (2019). 日本の家族と戸籍. 東京大学出版会.

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