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「家父長制」はPatriarchy(パトリア―キー)の訳語:「パトリア―キー」として理解してみる

「家父長制」と聞いた時に私が最初に思い浮かべるのは、昭和のちゃぶ台ひっくり返す親父だったり、「おーいお茶!」のネーミングの元になったような一家の主として妻を手足のように使う男性です。身近なところでは親戚の集まりを想像します。つまり、どれも戦前の「家制度」の変形バージョンで「家」という漢字にイメージが引っ張られているのでしょう。さらに言えば、私は勉強する前は、家父長制はPatriarchy(読み方はパトリア―キー)の訳語だとは知らず、日本の家制度の言い換えだとすら思っていました。なので、自分がSNSなどで発信する時も「家父長」という言葉は何となく使いづらいように感じていました。

今回この記事を書こうと思ったのは「日本に家父長制なんて残っていない」という趣旨をSNSで見かけて、その誤解も分からなくもないなと思ったからです。Patriarchy(パトリア―キー)の訳語だと知らなければ、「家」「父」「長」の漢字で、その人その人がイメージする概念に引っ張られてしまうのは仕方のないことのように思います。

まずPatriarchy(パトリア―キー)の語ですが、これは漢字の語と同じように接頭語と接尾語のそれぞれの意味が合体しています。PatriはFather(父、キリスト教では聖職者の意味もある)、archyはrule(人々に対する支配または統治)、goverment(組織された共同体、一般的には国家を統治するシステムまたはグループ)です。ですから、キリスト教文化圏では、この語から想起するのは聖職者が人々を支配統治しているイメージの方が近いのではないでしょうか。

そのPatriarchy(以降、パトリア―キー)は、社会学の中でフェミニスト研究(社会は男性中心にできているけれどそれでは見えないものを見るために女性を中心に持ってきて社会を解釈する研究)の一つのアプローチ、枠組みとして使われるものです。パトリア―キーについて書かれているものをざっと調べてみたので2つ紹介します。1つめはInternational Encyclopedia of Human Geographyという人文百科事典のもの、2つめは暴力とパトリア―キーについての論文によるものです。

パトリアーキーは、性別の不平等を構造化する政治的、社会的、経済的なシステムに組み込まれた関係、信念、価値観の体系です。女性に関連する属性や「女性らしい」と見なされるものは低く評価され、一方で男性に関連する属性や「男性らしい」と見なされるものは特権的に扱われます。

パトリアーキーは私的な領域だけでなく、公的な領域も構築し、男性が私的領域と公的領域の両方を支配するように確保します。フェミニスト研究は、パトリアーキーに関係する歴史と地理を探求し、パトリアーキーの構造が歴史や地理が変わってもダイナミックで柔軟な方法で現れ、維持されているという理論的アプローチを提供しています。

これらのアプローチは、パトリアーキーと資本主義、植民地主義、ナショナリズムとの関連性を理論化し、パトリアーキーの関係が規模を超えて作用するだけでなく、社会的関係を階層的な関係(ヒエラルキー)で整理する方法を論じています。

このような研究では、身体のレベル、公的-私的の分断、ナショナリズムと市民権、植民地主義、グローバリゼーションのレベルでパトリアーキーがどのように関係しているのかを調査しています。また一方で、分析ツールとして使う場合、パトリアーキーは男性と女性の不平等な関係の概念化において普遍的で包括的すぎるという批判もされています。

International Encyclopedia of Human Geography

パトリア―キーは、大まかに言えば、ジェンダー的・交差的不平等、男性の権力と女性の従属を生み出し、再生産するシステムとして概念化することができます。それは社会的、政治的、経済的構造と実践のシステムであり、そこでは男性が集団/カテゴリーとして女性を支配し、抑圧し、搾取しています。「集団としての男性」と「集団としての女性」は、ここではすべての男性やすべての女性ではないことを強調するために使われています。

パトリア―キーがとる構造、プロセス、行動といった正確な形態が、社会や文化によって、また歴史的にも異なることは明らかです。パトリア―キーの具体的で多様な地域的形態と、文化、暴力の相互作用については、比較人類学とその他の学問分野の両方から、男性性と男らしさの構築も含めて、多くの研究があり、焦点を当てた詳細な事例研究があります。 同様に、パトリア―キーの歴史的分析に関する文献も膨大であり、「神→君主→父親→その他の男性」という古典的な説明から、私的から公的、近代パトリア―キーへの歴史的変化まで様々です。パトリア―キーのこうした歴史的分析は、パトリア―キーの大雑把で一般化されすぎた分析に対するいくつかの(フェミニストの)批判への応答として見ることもできます。

このような広範な歴史的説明は、パトリア―キーのさまざまな社会形態における構造や領域の歴史的多様性に注目することによって補完されることもあります。さまざまな社会形態において、暴力は他の領域、たとえばセクシュアリティ、労働/資本主義、家族/生殖、市民社会、政治、文化/思想/言説などとともに存在しているのです。

「パトリア―キーと資本主義」といった強力な階級的見解がさらに発展してきています。最近では、新自由主義時代のパトリア―キーに関する研究が多く行われていて、歴史や国を超えてあらわれるパトリア―キーや帝国主義の影響であったり、人種化されたパトリア―キーについて議論されています。

このように、男性集団のバリエーションと男性間の差異、女性集団のバリエーションと女性間の差異を考慮すると、事実上、同時多発的で歴史的に特異なパトリア―キーが存在し、これらは異なるタイプの男性によって支配され、同時に作動し、互いを環境として捉え、時に重なり、時に重ならない、と言えます。また、パトリア―キーは、社会的、政治的、経済的な力だけでなく、男性個人やトランス男性を含む男性グループ間の権力階層も含みます。

パトリア―キーは構造的であると同時にイデオロギー的であり、社会制度と社会関係のヒエラルキー組織です。DeKeseredyはパトリア―キーを2つの要素で構成されると概念化しています: 「構造的には、社会制度と社会関係のヒエラルキーであり、それによって男性は社会における権力、特権、リーダーシップの地位を維持することができる。イデオロギーとしては、自らを合理化する。つまり、そのような行為から利益を得る人々だけでなく、社会によってそのような従属的な立場に置かれる人々にも、従属を受け入れる方法を提供するのである」。

このような社会の基本的な組織構造は、特にジェンダーによって、人々を異なる立場に置きます。構造的な差別に加え、その状況を正当化し合理化するイデオロギーとによって、女性は従属的な立場に置かれています。これは家族においても、社会の公的機関においても同様です。このような社会的背景において、暴力は女性や子どもに対する男性の支配手段となっています。暴力とその脅威は、男性に対する女性の力と抵抗を弱めようとする試みとして理解できます。つまり、男性による女性への支配と暴力の容認は、しばしば法律によって承認、正当化されているのです。

Strid, S., & Hearn, J. (2022). Violence and patriarchy. In Encyclopedia of Violence, Peace and Conflict (pp. 319-327). Academic press.

SNSの「日本に家父長制なんて残っていない」という書き込みを受けて、自分の復習もかねて、ざっとですが調べてパトリア―キーについてメモしてみました。

パトリア―キー(家父長制)は、古くは「神→君主→父親→その他の男性」で、現在は資本主義や暴力の解釈にも使われているのが分かると思います。キリスト教文化圏から日本に場所を移しても(地理の変化)パトリア―キーは形を変えてあらわれていて、日本の統治の歴史から現代に柔軟に変化してあらわれている日本のパトリア―キーを考察することができると思います。

わたしは日本のパトリア―キーを「イエ」概念として解釈することが多いのですが、公的機関、企業、学校、家庭などあらゆる場面でパトリア―キー(イエ)で解釈できる支配従属関係を見ることができます。特に、日本社会を眺める時は「従属が美化されていることは何か」というのを考えていくと見えてくることが多いように思います。

ざっとしたメモですが、読んでくださった方がそれぞれに思考する時、このメモが役立てば幸いです。

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