LAMYのSAFARIを愛している話。

noteのアイディアは、いつも無印良品のノートに、LAMYの万年筆で書きつけている。大学生の頃ドイツ北西部のアーヘンを訪れた時、文具屋さんに立ち寄って買った。日本より大分安かったと思う。ガシガシ使えて大変良い。
SHEAFFERはペン先が華奢なのでこうはいかない。
インクは、コンバータを装着して、毎回吸入をしている。
「ええ、めんどくさくない?手も汚れるし」と、万年筆を持っている職場のおじさま達にすら言われてしまう。(万年筆あるいは良い文具が社会人の必須アイテム、だった世代だ)
でも、私はこの一連の手間こそ、実はささやかな楽しみなのだ。
カードリッジでは、どうも物足りない。コンバータをくるくる回してインクを吸い上げるあの動作がなぜか楽しみなのだ。
それから現実的な話をすれば、私にとってはコンバータの方がずっと経済的だ。下手すると三日に一度は吸入しているので、つまりそのペースでカードリッジを交換することになる。

手書き文化が廃れてる〜とかなんとか、数年前ごろまで良く聞いたような気がするけれど、今はどうなんだろう。廃れきってもう叫ばなくなっただけなんだろうか。
私より下の、今の小中高生は手書きをどう思っているんだろう。
私が小学生の頃面倒で仕方なかった習字の授業みたいに、いずれ『硬筆』の授業とか、あるいは毛筆とひっくるめて『習字』の授業とかになるんじゃないだろうか、なんて想像している。
別に私は危惧していない。真っ当で自然な流れだろう。だってタイピング入力した方が同じ作業時間ではるかにたくさんの情報を創出できるのだから。もし私たちが「今の子供達の手書き離れ〜」などと声高に叫ぶとするなら、毛筆が当たり前だった時代の人からみたら、私たちだって十分に嘆かわしい存在のはずだ。(70代80代の方の文字を拝見する機会が仕事でときどきあったのだが、背筋がぞっとするくらい美しい行書体を書かれる方があの世代は本当に多い。自分の書く文字の幼稚さに恥ずかしくなるほどだ)

おそらく文字を書くことはこれから趣味性の高い行為になっていくんじゃなかろうかと思う。つまり生産性、効率性という軸から外れた行為、絵を描くこととカテゴリーが近くなるんじゃないだろうか。
それに伴って、私の愛する万年筆はじめ、文房具もどんどん趣きに重心が傾いていくんだろう。書き味も握り心地も中途半端なものは淘汰されて、『持っていて楽しいもの』だけが生きのこる。私にとっては、この上なく素敵な話だ。
業界規模全体で見れば縮小するという傾向になってしまうかもしれないけど、それはそれで、悪くないんじゃないかな。資本主義のベクトルが絶対って、まだ決まったわけでもないし。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!