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キタダ授業記録集 4 「詩歌にみる戦争の非人間性」


前々任校で、卒業を前にした生徒たちとともに考えた国語の授業。 「詩歌にみる戦争の非人間性」感想交流。


1限目。

生徒たちは、たとえばこんな一節やこんな歌に立ち止まってくれました。


(死はぼくたちに来なかった)
(一気に死を通り越して魂になった)
(われわれにもう一度人間のほんとうの死を与えよ)

        (嵯峨信之「ヒロシマ神話」)


ガス室の仕事の合ひ間公園にスワンを見せに行つたであらう

充満を待つたゆたひにインフルエンザのわが子をすこし思つたであらう

         (小池光「生存について」)


・「人間性も非人間性も、誰しもが持っている。『人間らしさ』のなかには、人間の弱さや残酷さも含まれると思う」

・「アウシュビッツのガス室でボタンを押した人も、最初は人を殺すことに抵抗があったはず。でも、その作業に『慣れ』ていくうちに、人間性が壊されていった」

・「人間的でないということは、動物的(知的判断をせず、感情の赴くままに行動する)であったり、機械的(感情を持たない)であったりすること」

・原爆死について・・・『痛く苦しい死よりも自分は安楽死がいい』という意見をきっかけに、『原爆死は安楽死か?』と問うたところ、しばし大激論。


このクラスでは、原爆投下直後の実相・・・火球や地表の温度、「石段に焼き付けられた人影」のことについて家庭で調べてきた生徒がいて、きょうの授業のはじめにそれを詳しく発表してくれました。

・「戦争は人が傷つくだけ、心に大きな穴が開くだけ」→殺される恐怖だけでなく、人を殺してしまったことによる「PTSD」にふれてくれた生徒もいました。


2限目。

となりのクラスでも意見交流をして、やはり

・もし自分が人を殺してしまったら、その後の人生をきっと生きていけないと思う

と言った生徒がいました。

また、このクラスでは

・「(石垣りん「挨拶」の)『安らかな今日の顔』でほっとしたけど、詩の最後を読んで怖くなった」

という感想から、今ある現実(ここでは核の脅威)を知っていながら見ようとしていない・・・見たくない・・・という心理に焦点を当てたり、

・戦争がなくならないのはなぜか

というテーマが話しあいの俎上に上りました。

『争いがまったくない状態』は逆に「人間らしさがない」ともいえるのでは? という意見も出ていました。


どちらのクラスでも、「非人間性という言葉に違和感がある。『非人間性』の中身も、『人間らしさ』のひとつなのではないか?」という意見が生徒たちの中から出されていました。

たとえば、「争ってしまうのも『人間らしさ』だと思う。争いがまったくない状態は『人間らしさ』がないといえるのではないか?でも、だからといって、争っていいとは思わない。争いの種が生まれても、話しあいで解決するべきだ」と。


教育の中立を担保しつつ、多様な意見を交流させたい。

それが民主主義であり民主教育であると思うからです。

民主主義とは、多様性を担保しつつ、分断を防いだり修復したりするものだと考えます。




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