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「はだの」と読む秦野市。神奈川県秦野市。グーグルマップをゆく #58

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は神奈川県秦野市。

 秦野市。「はだのし」と読むらしい。秦野市の公式サイトによると、古墳時代に「秦氏」がこの地を開拓したことに由来しているという説があるものの、文献や史料にはそういったことは見つかっていないとのことであった。

秦野と波多野

 秦野の古名が「幡多」という字が当てられていたと「倭名類聚抄」に書かれているとのことだったが、そうなると一層に秦氏からは遠のく。さらには、平安末期にこの地名を名乗った「波多野氏」が登場し、「はたの」と呼ばれていたか「はだの」と呼ばれていたかわからないとのことだった。

古代の「は」行の発音

 日本語の「ほひふへほ」の発音は江戸期になってから生まれたものであり、それまでの人々は「ふひふへほ」の発音ができず、古代は「ぱぴっぷぺぽ」、中世は「ふぁふぃふぅふぇふぉ」と発音した。

秦氏と渡来人

 つまり、古代における「秦野」は、「ぱだの」だったわけである。こうすると、秦氏との関係も近づいてくる気がする。秦氏の「秦」は、秦の始皇帝から来ているといわれるが、それは渡来人が自分達を権威づけるために言っていただけだというのが定説となている。渡来人たちが海を渡って来たため、朝鮮語の「海」を意味する「바다」(パダ)から来たのではないかとも言われている。前出の発音の話からすると、「はた」ではなく「ぱだ」と発音することを考えると説得力がある。

波多野荘

 波多野氏についてであるが、平安期、秦野市に「波多野荘」という荘園があり、京都から相模守としてこの地にやってきた藤原公光の子・佐伯経範が名乗ったのが始まりとされている。では、その「波多野荘」についてであるが、当時、この荘園の持ち主は京都の近衛家であったらしい。

 近衛家前の荘園の持ち主は皇族であったとされている。相模守の初代は秦井出乙麻呂となっていて、赴任していたのは天平15年(743年)である。この人は京都の秦氏の人である。これを真実とするならば、皇室から荘園を管理するために相模守として派遣された秦井出乙麻呂によって「秦野」とつけられたとも考えても不思議ではない。

「幡多」という古名

 古名の「幡多」についてであるが、高知県に「幡多郡」というところがあり、古く「播多」と書き、は平城京跡で出土した木簡に「播多郡嶋田里」と記されたものがあることから、古くからあったとされている。

 ひょっとすると、こことも何かしら関係があるのかもしれない。強引に秦氏と結びつけたいわけでもないが、ふと思って調べたことを書き連ねた。


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