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謎の城柵、払田柵跡。秋田県大仙市。グーグルマップをゆく⑪

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想紀行するグーグルマップをゆく。今回は、秋田県大仙市。

 大仙市は、秋田県の南東部に位置し、花火の町であるらしい。ここに払田柵跡(ほったのさくあと)といういまだに歴史的に解明されていない謎の遺跡がある。明治35年頃に水田から200本もの柵木と木簡が発見されたことから調査が行われ、存在が明らかとなった。文献資料に表れないことから、いつ何のために誰が作ったかなど、全く不明であるものの、軍事と行政の役割を担った施設だったと考えられている。

 大化の改新以降、大和政権は東北の蝦夷征服のために、陸奥国、出羽国、越後国といった東北地域に城柵と呼ばれる軍事と行政をの役割を兼ねた施設を置いた。払田柵跡は、その一つと考えられる。城柵の特徴は、山城とは違い、防備が弱く、官衙としての特徴が強いことで、どうやら条坊制によって区画整理されたものらしかった。

 雪国という点を考えると建物を大きくするよりも柵によって敷地を確保することが優先されたのかもしれない。ふと、「国」という字が浮かんだ。国というのは柵で囲まれた敷地を表したものなのかもしれない。東北の有名な柵城には多賀城跡や胆沢城跡など、多くの柵城が造られている。払田柵跡の規模は、多賀城跡よりも大きいらしい。蝦夷の征服を任された大将が征夷大将軍である。

 ちなみに、胆沢城を坂上田村麻呂によって築かれた柵城である。中学や高校の歴史に必ず登場する坂上田村麻呂だが、名前にも苗字に使われる字が含まれていることから、なぜか記憶に残ってる。余談ながら、坂上田村麻呂の息子は、坂上大野、坂上広野と言い、もはや苗字オン苗字である。

 平安初期から蝦夷を征服のための戦争が行われていたものの、弘仁2年(811年)には、蝦夷征服戦争は終結したとされ、その後は民夷融和政策といった蝦夷との身分差の解消を図るための政策が講じられている。

 これらを見るに、柵城は軍事行政を兼ねた施設であるとのことだが、戦争よりも行政施設としての機能の方が大きかったのかもしれない。もしくは、戦争後に蝦夷との共和国のために条坊制を用いて町を形成しようとしたのかもしれない。と、考えるのは飛躍し過ぎだろうか。

 現在、払田柵跡には、レプリカの柵城が建てられ、その当時の風景画再現されている。周辺地域も田畑が広がり、まるで当時から全く変わっていないかのようである。


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