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伊勢侵攻の三嶽寺焼き討ち。三重県三重郡。グーグルマップをゆく㉙

 グーグルマップ上を適当にタップし、ピンが立った町を歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は三重県三重郡。

 三重県三重郡菰野町の湯の山温泉に天台宗山門派の寺院・三嶽寺がある。大同二年(八〇七年)に伝教大師最澄によって開かれたとされている。元々は鈴鹿山脈の国見岳にあったとされているが、戦国期に武将・滝川一益の焼き討ちによって消失しているため、詳細はわからない。

 永禄十一年(一五六八年)、織田信長は滝川一益に伊勢侵攻のため、近江から伊勢における寺院の焼き討ちを命じた。三嶽寺もその中に含まれており滝川の軍勢が押し寄せた。当時、三嶽寺には数百もの僧兵がおり、滝川軍相手に抗戦したが壊滅し寺は消失する。この三年後に比叡山焼き討ちが行われる。

 昨今の研究において、比叡山焼き討ちの真相が見直され、いきなり比叡山を焼き討ちにしたわけではなく、浅井・朝倉との争いうに介入していた比叡山に対して手を引いてくれるように手紙を出していることがわかっている。

 また、比叡山焼き討ちよりさらに後の浄土真宗石山本願寺との石山合戦においても、信長はかなり譲歩し再三手紙を送ったが本願寺が聞き入れずに焼き討ちに至ったことがわかっている。

 伊勢侵攻における三嶽寺焼き討ちについてはまだよくわからない。幾度かのやりとりがあったのかもしれないが、あらゆるものが焼かれているためわからない。しかし、この侵攻が強行されたものだとすれば、比叡山や本願寺の僧侶への不安につながる布石となり、信長を擁護するのは難しい気もする。

 一方、僧兵である。僧兵という言葉は江戸から使われるようになった言葉であり、信長の頃にはまだなかった。あくまで、兵装した僧がいるというわけであり、信長にしてみれば「僧のの本分を疎かにして武力を持つとは何事か」と思ったのも仕方がない。

 こういった僧は、奈良時代から存在した。東大寺などの得度を受けていない言わば僧の身分を持たない者で、時衆(じしゅ)や優婆塞(うばそく)など、色々な呼び名があるが、寺院の雑用係などの下っ端で、奈良時代の当時から、寺院を守る用心棒としてどこの馬の骨ともわからない荒くれものを雇ったりもした。余談ながら、源義経の従順な家臣である武蔵坊弁慶もそうだと言われている。

 信長らより以前、室町の第六代将軍である足利義教は、元々将軍の継承権を持たなかったために比叡山に預けられ、比叡山のトップである天台座主にまでなった人で、天台座主当時に後継者に指名され、幾度か辞退するも将軍に就いた。比叡山のことを熟知している義教は、僧兵の勢力を懸念して比叡山の焼き討ちを行なっている。

 これらから考えても、僧兵が数百人もいた三嶽寺も注意すべき存在であったはずであり、一方的に信長が悪いとも言い難い。とはいえ、真相はわからない。

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