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一遍上人をたずねて⑬

 大分県別府市といえば温泉で有名であるが、別府八湯(べっぷはっとう)と呼ばれる温泉郷の中に鉄輪温泉と呼ばれる温泉がある。こちらの温泉は、いわゆる蒸し風呂で、地元の伝説では「一遍上人が鉄輪の地獄を鎮め、温泉療養の場として鉄輪を開いた」とされている。

 この話はあくまで地元の言い伝えであり、根拠となる史料がない。唯一の手がかりとなるのは、一遍聖絵に一遍上人が太宰府にて師である聖達と再開した際、二人で蒸し風呂に入って語り明かしたというものがあり、これによって一遍上人と風呂が結び付けられていると考えられる。

 当時、お風呂といえば蒸し風呂が一般的で、蒸し風呂で語り合うサロンのような機能を持っていた。また、仏教とともに入ってきたものなので、建築技術と同様に僧は知識と技術を持っていた。

 師の聖達と再会は太宰府であった。伊予から大分周りで太宰府というルートを取り、その際に大分で鉄輪温泉を開いたのではないか?という見方もあるのだが、水路を取るならば伊予から太宰府まで行った方が早い。

 何かしら通行の規制があったのだろうか?水路の場合、海賊によって私的な関所が設けられている場合もあり、通行料を支払わなければ殺されることもあった。しかしながら、一遍上人は伊予河野水軍の出身である。うまく行けたのかも知れず、その辺りの瀬戸内海周辺の海の状況がよくわからない。

 壮大な妄想の旅に出たい。平安末期、越智水軍が瀬戸内海を掌握した。そこから河野水軍が現れる。村上水軍が歴史に登場するのはその後である。鎌倉期、瀬戸内海には河野水軍の他に、宇和島の法華津や肥前の龍造寺、松浦、有馬など、様々な水軍が自らの海域を守っていた。

 もし、一遍上人が自らが水軍出身だと言うことを武器に念仏を唱えながら海路を行き来したならば、それによってそれぞれの水軍のネットーワークを繋ぐころができたのではないだろうか。

 「松尾芭蕉が忍者だった」というような妄想を膨らませている。一遍上人における遊行のルートについては、それくらいのロマンに満ちている。

 元の話に戻りたい。

 鉄輪温泉のすぐ近くに永福寺という寺院があり、明治24年に松寿寺跡に再興されたものであるらしい。ちなみに一遍の幼名を松寿丸といい、何やら一遍上人と関係がありそうである。

 「松寿寺由来口上覚書」によると、延享5年(1748年)に南鉄輪村の組頭助右衞門が時宗本山藤沢清浄光寺に願い出て、山号・寺 号が許され、時宗末となり、その10年後の宝暦8年(1748年)に清浄光寺から淳孟という僧が派遣されて住職となり、そ の後、12代の恵秀まで続いたが、明治4年(1871年)には無住となったとされている。

 どうも、この時に鉄輪温泉は一遍上人が開いたと触れ回った気がするのだが、どうであろうか。


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