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マイノリティのイエス―鄭義信『さよなら、ドン・キホーテ!』

 


 予備知識なしで観た舞台


 オペラシアターこんにゃく座の、すてきな舞台を観た。鄭義信が脚本・演出、林京子作曲の『さよなら、ドン・キホーテ!』だ。どんな内容の作品かという予備知識ゼロ、鄭義信作ということすら知らないで観る。前半を見終わったら、なかなかよいので、幕間にググり、鄭義信作ということを知る。初演は、2021年。

 あらすじ


 ナチス占領下のフランスの田舎が舞台。牧場主の父トーマスと厩舎で暮らす娘ベルは、社会の定める男らしさ/女らしさに違和感を感じており、ドン・キホーテのように世界を遍歴し、悪を正すことに憧れている。そんな彼女の元に、ナチスによるユダヤ人迫害のせいで、家族と離れ離れになってしまったユダヤ人少女サラがやって来る。ベルは彼女を好きになり、父に内緒で匿うが、最後はゲシュタポに見つかってしまう。  

サラとベル

 サラは、ゲシュタポから何とか逃げ出すが、おそらく収容所で死を迎えている。サラとの別れを経験したベルは、セクシャル・マイノリティとして闘い続けることを誓う歌を歌う。そんなベルの背後で、赤い紙吹雪の舞う中、彼岸のサラは手を振りながら立ち尽くしており、そこで幕。

ベルの背後にサラ。鄭義信がアングラ演劇出身である、ということを思い起こさせる演出でした。

 Ⅰ 二つの差別

 ベルは、登校を拒否している。舞台が進行すると、学校で好きな女の子ができ、告白したら、そのことを言いふらされ、からかわれているからだとわかる。ベルは、セクシャル・マイノリティに対する差別に苦しんでいる。  

 一方、サラはナチスによるユダヤ人迫害の犠牲者である。エスニック・マイノリティに対する差別に苦しんでいる。エスニシティか、セクシュアリティかという違いこそあれ、二人はマイノリティに対する差別の犠牲者という点で共通している。作品は、二つの差別を重ね合わせて描き、その不条理を告発しているというよう。



 Ⅱ 鄭義信の新機軸?


 鄭義信作品は好きで、これまで、彼が戯曲と演出を手がけた舞台も、彼が脚本を担当した映画も見ている。 

 彼自身が在日韓国人三世ということもあり、これまでも在日韓国人というエスニック・マイノリティの受ける差別や苦悩は描いていた。例えば、『焼肉ドラゴン』のような。けれど、私が知っている鄭作品は、異性愛を描いていており、セクシャル・マイノリティの苦悩を扱う作品は初めてだった。

※予告編でお父さんとヒコーキごっこをしているのが、長男の時生です。

 チェーホフの『桜の園』へのオマージュとして書かれた『焼肉ドラゴン』(2008年初演、2018年映画化)では、焼肉屋の長男の時生は、在日韓国人であることをネタに学校でいじめられ、不登校になり、失語症を患う。それでも父親は学校に通うことを望む。逃げ場のない時生は、ついに自殺してしまう。

 かつて私は、舞台で、映画で、時生の自殺に胸を痛めた。だから、ベルがサラとの出会いによって自己肯定感を持つようになり、自分から学校に通うことを選び、困難があっても闘おうとする幕切れに救いを感じて、ほっとした。もちろん、変わらなければならないのはむしろ、ベルの性的指向を嘲笑うマジョリティの側であることは間違いがないのだけれど。

 この新機軸に、LGBTを取り上げることで、時流に乗ろうとしているだけではないか、という批判もあるかもしれない。けれど私は、LGBTの問題を取り上げ、可視化することで救われる当事者もいるだろうし、性的指向に苦しむ人がいることにマジョリティが気づくきっかけにもなると思う。

 こんにゃく座は、学校公演も多いようなので、なおさらである。無意識のうちに簡単に言葉で人を傷つけかねない生徒たちが、当事者の苦しみを知り、当事者はエンカレッジされることは、よりよい世界を作っていくために必要なことであると私は思う。

 Ⅲ 周辺人物のセクシュアリティ及びジェンダー

  1 小学校教師オードリー

 話を作品そのものに戻そう。ベルのセクシュアリティ及びジェンダーの問題が前面には出ているが、周囲の人間のセクシュアリティやジェンダーの問題も扱われる。

左の青い服の女性がオードリー、左端のハンチングを被っているのが、ルイ

 登校を催促しに来る小学校教師オードリーは、ドイツ人将校の愛人だったという過去があり、後ろ指を差されることにいたたまれなくなり、パリから田舎町へと転勤する。愛人になったのは拒むことができなかったからだが、戦争が終わったら、丸坊主にされて、街を歩かされるだろうという。おそらく、ロバート・キャパの写真からの発想だろう。

 あ、そうそう、アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール』(1959)のヒロイン(エマニュエル・リヴァ)も、ドイツ人将校と恋仲だったために、戦後、丸刈りにされてしまうんだったっけ。

  2 馬丁のルイ

 また、馬丁のルイは、足が悪く、兵士になることもできず、女性から相手にされないことを苦にし、田舎町から出て、パリに行く金を手に入れようと、サラの存在を密告する。性的な欲望が満たされないことから、人の命をお金に換えようとするのだ。

  3 父トーマス

 ジェンダー部門を引き受けるのは、ベルの父トーマスだ。彼は、妻に逃げられた男という設定で、男手ひとつで娘のベルを育てている。
 同時代で男やもめを描いた、小津安二郎の映画『父ありき』(1942)なんぞを思い起こさせる設定だが、トーマスは家政婦を置かずにじしんが家事全般を担当し、祭りの日には、エプロンがけで、鍋でこしらえた料理を運んで来ている。

トーマスとベル
『父ありき』

 娘は、ジェンダー規範に積極的に異を唱える存在だが、父は成り行きでジェンダー規範から外れた振る舞いを余儀なくされている存在なのだ。

 Ⅳ ルイ・マル『さよなら子供たち』に捧ぐ

  1 なぜナチス占領下のフランス?
 

 舞台を観ていて、不思議に思ったことがある。鄭義信はなぜ、セクシャル・マイノリティを取り上げるときに、在日韓国人ではなく、ナチス占領下のフランスに生きる少女を主人公にしたのだろうかと。 

 答えのヒントは、もしかしたら、「映画」なのかもしれない。リンクを貼ったインタビューで、鄭義信は、大学中退後、「話がごっちゃになるくらい映画をみていた。」と述べており、その後、映画の専門学校に通いさえしている。だから、映画にオマージュを捧げるため、かもしれない。

  2 物語構造の共通性


 本作は、ナチス占領下のフランスで、ベルはユダヤ人のサラに対して同性愛の感情を抱くが、使用人である、足の悪い青年の密告によって別れのときがやって来る。

 同じくタイトルに「さよなら」が入り、ナチス占領下のフランスを舞台にした映画に、ルイ・マルの『さよなら子供たち』(1987)がある。ナチス占領下のフランス修道院付属の寄宿舎学校で、ジャン神父によってユダヤ人のジャンが匿われる。主人公のジュリアンはユダヤ人のジャンに同性愛的な感情を抱くが、寄宿舎の厨房の手伝いをしている、足の悪い青年ジョセフの密告によって、別れのときがやって来る。
 ジュリアンのエロースは、ジャンとピアノの連弾をして笑いあったり(予告編の48〜50秒)、ジュリアンが『千夜一夜物語』の読み聞かせをしながら、ジャンが眠りに落ちる(予告編の1分32〜33秒)ことから示されている。

 ※ジャン神父は、31秒あたりの聖体拝領のシーンと、1分26秒あたりの、別れのシーンに、密告者ジョセフは、1分19秒あたりに登場します。

 ルイ・マル作品は、ナチス占領下のフランスを舞台に、少年の目から見た戦争を描いているが、鄭作品の方は、ナチス占領下のフランスを舞台に、少女の目から見た戦争を描いているといえる。

  3 付け加えられたテーマ

 タイトルに「さよなら」を冠した2作品ともに、ホロコーストのようなできごとを二度と繰り返してはならない、というメッセージがあることは、いうまでもない。では、同性に対するエロースついてはどうだろうか。
 ルイ・マルは、同性に対するエロースを描くが、それは司祭になりたいという主人公ジュリアンを、イエス・キリストに倣って、ユダヤ人に対するアガペーを実践する、模範的な少年として描くのを回避するためでもある。
 映画の主眼は、セクシャル・マイノリティの人権を訴えることではない。フランスのブルジョワジーは、クリスチャンを自称し、息子たちを修道院付属の寄宿舎学校に入れながら、ナチスによるユダヤ人迫害を見て見ぬふりをし、彼らに手を差し伸べようとはしなかった。そんなブルジョワジーの冷たさを、彼らのエゴイズムを告発することにある。

 一方、本作は、ルイ・マルが主人公ジュリアンを「よい子」に見せないために用いた同性へのエロースを、前景化している。同性に対してエロースの感情を抱いたがゆえに、学校でいじめられてしまった少女の苦悩を描くことに、もう一つの力点がある。 

 Ⅴ マイノリティのイエス

  1 ジャン神父

 『さよなら子供たち』は、レジスタンスに参加し、ユダヤ人少年を匿ったことで、ナチスに連行されて行く、ジャン神父の、少年たちへの別れの言葉に由来している(予告編の1分26秒で振り返っているのが、ジャン神父で、31秒で聖体拝領を行ってもいます)。
 ジャン神父は強制収容所で亡くなっており、イエスに倣って、エスニック・マイノリティに一方的で絶対的な無償の愛―アガペー―を示すことで、自らの命を失うジャン神父は、文字通りイエス的存在として、マイノリティにとってのイエスとして描かれている。

  2 少女ベル

 一方、本作の「さよなら」 は、サラが別れのときにベルにいった、「さよなら、私のドン・キホーテ!」から来ている。主人公ベルは、ユダヤ人少女サラをドゥルシネーアと思い、騎士として彼女を守ろうとするが、ナチスが踏み込むことで、それは果たされずに終わる。ベルは自分の無力さに気づくと同時に、彼女への思いを胸に、マイノリティに対する差別と闘う決意を新たにするのだ。

 ベルは、両親と引き離されたサラを匿い、こっそり彼女に食べ物を分け与えている。サラの両親に代わって、彼女を庇護するという自己犠牲を払っている。サラを匿ったことがわかれば、父トーマスが罪に問われ、殺されてしまうかもしれない。ベルのサラへの感情は、エロースに端を発しながら、一方的で絶対的なアガペーとしての側面も持ち合わせている。
 
 私が観たのは短縮版で、サラが祈るシーンはあったが、ベルが祈るシーンはなかった。だが、完全版には祈るシーンもあるようなので、クリスチャンとして、イエスに倣おうとするベルの姿がよりくっきり浮かび上がるのではないか。
 
 ベルは、結果としてアガペーを実践している点で、イエス的存在といえる。

  3 まぶねのなかに産声あげ

 ベルがイエス的存在であることは、ベルが厩舎で暮らしていることからもわかる。ルカ福音書2章1〜7節によると、宿屋に場所がなかったために、マリヤは生まれたイエスを飼い葉桶に寝かせている。この記述から、キリスト降誕の情景は、馬小屋で飼葉桶に眠る赤子という形で再現されるようになった。ベルの住まう場所も、イエスが生まれた場所と合致しているのである。

キリスト降誕の模型

  4 マイノリティ当事者のイエス

 『さよなら子供たち』のジャン神父は、イエスに倣い、エスニック・マイノリティに手を差し伸べることで、命を落とす。

 一方、ベルは、エスニック・マイノリティへに手を差し伸べるが、命を落とすことはなく、エスニシティやセクシュアリティによる差別のない世界を作っていく決意を新たにして、幕を閉じる。ベルは声を上げられずにいるマイノリティに代わって声を上げ、マイノリティにとってのイエスとして生きる可能性を秘めた存在である。ベルは、マイノリティにとってのイエスたろうとするが、同時に、自身もマイノリティであるという二重性を持っている。

 『さよなら、ドン・キホーテ』は、ルイ・マルの映画『さよなら子供たち』を下敷きにしながらも、差異を持ってマイノリティのイエスを描いた作品といえよう。

 Ⅵ 作家論の視点から

 最後に、作者である、鄭義信がなぜ、主人公をイエス的存在として造形したのか、について考えてみたい。

 無論、ルイ・マルの映画を下敷きにしたせいもあろうが、中退したものの、同志社大学の出身であるということも関係しているのではないか。同志社大学は、新島襄がキリスト教精神に基づいた教育を目指して、建学している。教養科目として、キリスト教の学びが課されており、鄭義信もまた、その授業を受けたはずである。同志社大学における学びが、鄭に今回のような作品を書かせる契機となったのではないか、そんな気がしている。


※こんにゃく座の舞台は、ダブルキャストで上演されています。内容をわかりやすくするため、2つのチームの舞台写真をミックスして掲載しています。全く違うベルがいるのは、そのためです。

※『さよなら、ドン・キホーテ!』の一般公演は、次は7月13日に明石市であるようです。お値段も前売券2500円とリーズナブルです。チケットの売り出しは既に始まっています。お近くの方は、ぜひご覧になってみてください。
詳しくは、ホームページをご覧ください。



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